夏休み前日①
一学期最後の朝、氷魚が登校すると、1-5の前の廊下でいさなが待っていた。氷魚の胸が弾んだ。
「いさなさん!」
携帯端末でやり取りはしていたが、顔を見るのは1週間ぶりだ。思わず大きな声が出てしまった。辺りを歩く生徒たちの視線を集めてしまう。
「氷魚くん、元気そうでよかった」
いさなは気にした様子もなく、微笑んで氷魚に手を伸ばした。かと思うと、すぐに引っ込める。
「――?」
「ハグだろ、ハグ」
意図が読めずに氷魚がきょとんとしていると、いさなの影から、凍月の囁き声が聞こえた。
「ハグ?」
なんのことだろう。
「気にしないで」
なぜか頬を赤らめたいさなはぎこちなく氷魚の肩を叩き、「とりあえず、これでいいよね」とうなずいた。
何がいいのかわからない。凍月に訊こうと思ったが、いさなは、
「じゃあ、放課後に、また」と自分の教室に入っていってしまった。
もう少し話をしたかったが、仕方ない。放課後までお預けだ。
夏休みも楽しみだが、久しぶりにいさなと話ができるのが、今はどんなことよりもうれしい。
「何かいいことでもあった?」
教室に入った氷魚が自分の席に着くと、隣の席の陣屋が話しかけてきた。どうやら、自分はにやけ面をさらしていたらしい。
「久しぶりに遠見塚先輩に会えた」
隠すことでもないので、正直に言う。
「会えたって、それだけ?」
「それだけ」
氷魚がうなずくと、陣屋は呆れたようにため息をついた。
「先輩、橘くんが来る前から廊下でそわそわしてたし、てっきり何か進展でもあったのかと」
「進展って?」
「なんでもない。気にしないで」
そう言われても、気になる。
「――っていうか、先輩、ずっと廊下にいたの?」
「少なくとも、わたしが登校した時にはいたね。1秒でも早く橘くんに会いたかったんじゃない?」
「まさか。他に用事があって早く来たんだと思うよ。おれの方はついででしょ」
「まあ、橘くんがそう思うなら、それでいいんじゃないかな」
陣屋は肩をすくめた。
直接会うのは1週間ぶりだが、いさなとは携帯端末でのやり取りはしていた。
それなのに、氷魚にできるだけ早く会うためだけにいつもより早く登校し、廊下で待つ?
そんなの、ありえない。
――ありえない、よな。
でも、もし、そうだったら――
うれしくないわけがない。
さっぱり頭に入ってこない校長先生の話や、夏休み中の諸注意を右から左に聞き流し、終業式をやり過ごす。
そうして帰りのホームルームが終わってすぐに、氷魚は教室を出た。
夏休みが始まる前の高揚感は、小学生の時から変わらない。ほぼ無限に休みが続く気がする。たとえそれが錯覚であっても構わない。気持ちの問題だ。
2-5の教室を覗くが、氷魚のクラスより早くホームルームが終わったようで、残っている生徒はほとんどいなかった。いさなは見当たらない。
まあいい。部室に行けば会えるはずだ。
夏休み前特有の開放的な気分と共に、氷魚は郷土資料室に向かった。
日常に這い寄る怪異、引き受けます。
という張り紙が貼られたままのドアを開ける。
部室の中では、いつものように星山が本を読んでいた。いさなの姿はない。
「おう、橘くんか。遠見塚なら職員室だよ」
「いさなさん、どうかしたんですか?」
リュックを置いて、氷魚は椅子に座る。
「担任に呼ばれてた。出席日数の件かもね」
「ああ……」
7月14日に早退してから、いさなは1週間学校を休んでいる。
以前にも仕事がらみでちょくちょく休んでいたらしいので、出席日数が不足気味なのかもしれない。
「まあ、心配しなくても大丈夫だと思うよ。遠見塚は成績もいいし、よほどのことがなければ進級できるはずさ」
「――そうですね」
一瞬、もしいさなが留年したら同じクラスになれるのでは、と不謹慎なことを考えてしまった。いさなの不幸を願ったみたいで、自己嫌悪する。
「――ところで、郷土部は、夏休みはどんな活動をするんですか?」
気を取り直して、氷魚は尋ねた。
「郷土部じゃなくてキョーカイ部だろ。遠見塚に怒られるよ」
笑いながら修正される。余計な気遣いだったらしい。やっぱり、以前の部名にこだわりはないようだ。
「ですね」
「こっちは、特にこれといったことはしないかな。ああ、でも、どこかに旅行するのなら、その場所の一風変わった歴史や伝説、不思議な話を仕入れてきてくれると助かる。新聞のネタにするからさ」
「わかりました。そうします」
「期待してるよ。鎧武者の記事、評判が良かったからね。怪談の側面に光を当てていたってさ。橋の上の姫と絡めていた点とか、興味深かったな」
陣屋の依頼で調査した鎧武者の件は、差し障りのない範囲でレポートにまとめ、星山に提出していた。
「いさなさんのおかげですよ。おれはただの付き添いでした。記事を書いたのは部長ですし」
「だとしても、情報提供は橘くんだろ。きみがいなきゃ書けなかった記事だよ」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
星山とそんなことを話していると、ドアが開いた。いさなかと目を向ける。
「辰博、お待たせ」
以前、星山と仲がよさそうに話していた女子生徒だった。手にはお弁当を持っている。
女子生徒は、氷魚を見ると一瞬だけ固まった。が、すぐに笑みを浮かべる。
「きみ、橘くんだよね。あたし、香椎っていうの。辰博がいつもお世話になってます。」
目が笑ってないのが怖い。言外に、邪魔だからさっさと出て行けと言っているようだ。
そういえば、星山はいつもお昼は部室で彼女と食べるといさなが言っていた。
しくじったなと思う。終業式だからと油断していた。
「あ、いえ、お世話になっているのはおれの方です」
氷魚はそそくさと立ち上がりリュックをつかんだ。いさなの言葉を借りれば、お邪魔虫にはなりたくない、である。
「それじゃ、おれはそろそろ帰りますね」
「うん。いい夏休みを」
「先輩たちも」




