玉虫色の子守歌
血振りをし、納刀したいさなは「凍月」と影に声をかけた。
「おう」と返事をした凍月が姿を現す。
「遺骸の浄化を頼めるかな。魔力は好きなだけ持っていっていいから」
「放っておいても、いずれ消えるぞ」
「それでも、お願い」
「――わかった。おまえがぶっ倒れない程度にしとく」
いさなは目を閉じた。身体から力が抜けていく。
目を開ける。大型犬程度まで大きくなった凍月の姿があった。
凍月は大きく息を吸い込むと、熊の遺骸に向けて青い炎を吐きだした。
熊の遺骸が燃え上がる。
いさなは天に昇っていく煙を見上げた。
怪異と混じり合った熊の魂がどこに還るのかはわからない。
けど、浄化の炎に包まれて、せめてもの安らぎがあればいいと思う。
「ありがとう。やっぱり、おねえさんに頼んでよかったよ」
振り向くと、アキが穏やかな笑みを浮かべていた。隣には、やはり微笑む茉理がいる。
ふたりに向かって歩き出したいさなは、数歩も行かぬうちによろめいた。
茉理がやさしくいさなを抱きとめる。
「お疲れ様。頑張ったわね」
「――うん。わたし、がんばったよ」
茉理の胸に頭をくっつける。今だけは、こうして甘えていたい気分だった。
「下まで、おぶっていってあげましょうか」
「やだ。子どもみたい」
さすがにそれは恥ずかしい。
「ふふ。あなたはもう私の背中に乗ってるのよ」
「ああ、そうだったね。記憶がないのが惜しいや」
鵺の背中に乗るなんて、滅多にできない経験だというのに、もったいないことをした。
「だから、ね。今度は人の姿だけど」
茉理が背中を向けてかがみこむ。大きな背中だった。
結局、いさなは茉理にもっと甘えることにした。
茉理の背中に揺られながら石段を下りる。
不意に、小さい頃の記憶が脳裏をよぎった。
あれはお祭りの夜だった。
お祭りに行くからと新しい靴を履いたはいいが、靴擦れがひどくて泣きそうになったことがある。
それでも、楽しい雰囲気を壊したくなくて、いさなは黙っていた。春夜と雅乃、そして彰也が一緒だった。
靴擦れのことは、誰にも気づかれていないつもりだった。
ところが帰り道、春夜が笑って背中を差し出したのだ。
――乗ってよ。足、痛いんでしょ?
――なんで?
――わかるよ。いさなのことだもの。
胸が高鳴った。
負ぶってもらっている間、ずっとどきどきしていた。
前々から、春夜のことが気にはなっていた。年上で、魔術も剣術も何でもできる春夜は身近にいるヒーローだった。テレビや漫画の主人公より、遥かに格好良かった。
けれども当時のいさなには、あの夜自分が抱いた気持ちがなんなのかわからなかった。
今ならわかる。
自分は、春夜に恋をしたのだ。
公民館への帰り道、いさなは車の中で携帯端末の電源を入れた。氷魚から無事を知らせるメッセージが来ていた。
「――よかった」
心の底から安堵した。
真白たちに任せておけば間違いはないと信じていたが、それでもやはり不安は拭いきれなかった。それがきれいに消えた。
「やっぱあの小僧、悪運が強えな」
横合いから画面をのぞき込んだ凍月が笑う。すでに猫くらいの大きさに戻っていた。
こちらの方も終わったというメッセージを返して携帯をしまう。
「茉理さん。氷魚くん、無事だったって」
「あら、よかったわね。帰ったら抱きしめてあげるといいわ」
「……さすがにそれはちょっと」
思わず自分が氷魚を抱きしめる場面を想像してしまい、恥ずかしくなった。
「弟みたいな子なのよね。ハグくらいどうってことないでしょ」
茉理は真顔だった。
どうってことない? そうなのだろうか。
「――いやいや、あくまで弟みたい、であって、本当の弟じゃないからね。氷魚くんの方が背も高いし」
自分も169㎝と高い方だとは思うが、氷魚は170㎝を超えているのだ。
「おねえさん、なんか顔が赤いけど」とアキが言う。
「あ、暑いからだと思うよ」
「そうか? 冷房が効いてて、俺は寒いくらいだがな」
凍月が人間みたいな動作で前脚をさする。
「わたし、熱があるのかもね! 寒いなら影に戻ってたら?」
「そんなこと言わずにやさしく抱きしめてくれよ。小僧の前の予行練習とでも思ってさ」
「だから、しないって!」
「まあ、この辺にしておきましょうか。のぼせて倒れられると困るし」
茉理がにやにやしながら言う。さきほどまでの真顔は消えていた。
そこでようやく、いさなは茉理にからかわれたことに気づいた。アキはともかく、凍月がそれに乗っかったのだ。
「も、もう! ひどいよ!」
普段の自分なら、すぐに気づいたはずだ。気づくのが遅れたのは、きっと疲労のせいだ。そうに違いない。
「ごめんごめん。つい」
「はは、すまん」
「凍月はバリカンで丸刈りね」
「目がマジじゃねえか……?」
いさなたちのやり取りを聞いていたアキが、ぷっと吹き出した。
「おねえさんたちって、ホントに変わっているね。人とあやかしなのにさ」
「関係ないわ」
と言ったのは茉理だった。
「え?」
「人だろうがあやかしだろうが、いくらでも仲良くできるのよ。その気になりさえすればね」
「――じゃあ、ぼくも?」
「あなたが望むなら」
「ぼくが、望むなら――」
茉理の言葉の意味を確かめるように口の中で転がして、アキは首をかしげる。
「どうだろう。よくわかんないや」
そこで車が停まった。
「歓談中に申し訳ないけど、着いたよ」
長髪の男性に声をかけられて、一行は車を降りる。
事前に連絡が行っていたのだろう。公民館の駐車場で宗祇が待っていた。近くには大型の車もある。
「この車は?」
「冷凍機能を備えた特殊な車です。研究所に着くまで、アキには眠っていてもらう必要があるので」
「そんな、そこまでしなくても……」
――アキくんは、抵抗なんてしない。
続く言葉は飲みこんだ。
「いいんだよ、おねえさん。じゃあね」
アキは子どもらしくない笑みを浮かべると、いさなに背中を向けて去っていく。
「アキくん!」
その背中に向かって、いさなは声をかけた。
「うん?」
アキが振り向く。呼び止めたはいいが、何を言えばいいのかわからない。
ただ、このままアキを行かせてはいけない。そう思った。
「あ、その、研究所に来る前って、アキくんはどこにいたの?」
「どこかな? わかんないや。気づいたら研究所にいたから、他の世界を知らないんだ。覚えてないだけかもしれないけど」
早くも話の接ぎ穂を失ってしまった。アキがどこから来たかなんて、宗祇は当然教えてくれないだろう。
「南極じゃない?」
と、茉理が助け舟を出してくれた。
「南極?」
「ええ。確か、1931年だったかしら。表沙汰にはなってないけど、アメリカの大学の探検隊が『普通じゃないもの』をいくつか見つけているのよね。その中に、玉虫色もいたはずよ」
「へえ、そうなんだ。なら、ぼくは南極から来たのかもね」
南極と聞いて、閃くものがあった。
「――だったらさ、アキくん、いつかわたしと水族館に行こうよ。あ、水族館って知ってる?」
「知識としては知ってるけど、どうして?」
「ペンギンがいるから」
「ペンギン?」
「そう。南極といったら、ペンギンでしょ」
しばし呆気にとられたようにぽかんとしていたアキだったが、やがてふにゃっとした笑顔になった。
「なにそれ」
「故郷を思い出すかもしれないよ」
人間の都合か何か知らないが、遠い異国に連れてこられたアキなのだ。生まれた地に帰れないにしても、懐かしむくらいはしてもいいはずだ。
「――ああ、そういうこと」
納得したように、アキはうなずく。
「そうだね。だったら、ぼくは『望む』よ、おねえさん。いつか連れて行ってくれる?」
「うん。必ず」
現実的に考えて、難しいのは重々承知だ。クリアしなくてはいけないハードルは無数にある。
だが、空約束にはしない。絶対に叶えてみせる。
アキは微笑むと、再びいさなに背中を向けて車に乗り込んだ。
アキを乗せた車が走り出す。
その時だった。
――テケリ・リ、テケリ・リ。
やさしい旋律が、頭の中に響いた。おぞましい怪物の鳴き声ではない。聞いていると懐かしい気持ちになる、子守歌みたいな旋律だった。
「この旋律は……?」
皆が不思議そうにあたりを見渡す。どうやら、この場にいる全員に聞こえているようだ。
「そういや、玉虫色って、テレパシーが使えるんだったな」
いさなは、ぽつりとそう言った足元の凍月を抱き上げる。
旋律が小さくなっていく。
これは、いたかもしれないアキの母親的存在が、彼に聞かせた子守歌なのかもしれない。
眠りゆくアキは、それを思い出しているのかもしれない。
もしそうだとしたら、どうか、幸せな記憶であってほしい。
「なんだよ。ハグはしないんじゃなかったのか」
「いいの。今は、このままで」
憎まれ口を叩く凍月を抱きしめて、いさなは小さくなっていく車をいつまでも見送っていた。
玉虫色の死線 終
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
5章、終了です。
次の話は、できれば年内に投稿したいと考えています。