イオマンテ
極太のたくあんを噛み砕き、ハンバーグを口の中に詰め込む。鳥飯をかきこみ、もりもり咀嚼してお茶で胃の中に流し込む。
行儀も何もあったものではないが知ったことではない。とにかく身体が栄養を欲していた。
周囲が目をむくほどの勢いで戦闘糧食をたらふく腹に詰め込んだいさなは「ごちそうさまでした」と頭を下げた。
それから手早く身支度を整えて、茉理たちと共に公民館を出る。
「あの」
と、声をかけてきた人物がいた。一昨日の晩に大カマキリに襲われていた女性と老婆だった。
「どうしたの?」
さりげなく、いさなの前に移動した茉理が言う。女性がいさなに怯えていたことを気にしているのだろう。
「そちらのお嬢さんにお礼が言いたいと、母が。……私もですけど」
「え――?」
前に進み出た老婆がいさなの手を取った。
「ありがとう」と、拝むように頭を下げる。「ありがとうございます」と女性も頭を下げた。
「私たちのために戦ってくれたのに、怖がってしまって、ごめんなさい」
「……いえ、そんな、わたしは、ただ」
怪異と戦い、人に怯えられたことも、感謝されたことも、経験がないわけではない。
それでも、こういう場合にどういう反応を返せばいいのかわからず、いさなはただ戸惑う。
いさなの手を離した老婆がにっこりと微笑む。
「いい手だね」
「――? どういう意味ですか」
いさなが問うが、老婆はただにこにこするだけで何も答えてくれなかった。
幼い頃から剣を振り続けているいさなの手の皮は分厚く、固い。いさながイメージする女の子らしい柔らかな手からは程遠いが、これがどうしていい手なのか。
「お母さん、喉が乾いたでしょ。そろそろ体育館に戻ろうか。それじゃ、失礼します」
女性に促され、老婆はこくりとうなずいた。
まだ朝も早いが、外はすでに暑い。そんな中で、いさなが出てくるまでずっと待っていてくれたのだろう。
「よかったじゃねえか」
影の中から凍月が言う。
「そうだね」
小さくなっていくふたりの背中に向かって、いさなは頭を下げた。
いさなは特災課のSUVの後部座席に乗り込む。隣にアキ、更にその隣に茉理が座った。
運転は長髪の男性で、助手席には角刈りの男性が座っている。お目付け役らしい。
「そうだ茉理さん、アキくんが玉虫色だって、どうしてわかったの?」
車が走り出してから、いさなは気になっていたことを尋ねた。完全に人に擬態できるのであれば、どうやって判明したのだろう。
「アキが自分で言ったのよ。公民館に戻ってから、自分を逃がしてくれた女性が死んだって知ってね」と茉理が説明してくれる。
「あの人にもあの人の人生があったんだよね。なのに、ぼくのせいでそれは失われてしまった。ぼくが細胞を渡しさえしなければ、まだ生きられたはずなのに」
アキが悲しそうに呟く。
「アキを逃がした女性ね、旦那さんを亡くして、子どももいなくて、しばらくひとり暮らしだったんだけど、再婚が決まっていたんだって」
「そうだったんだ……」
「あの人だけじゃない。この村の人たちみんなの生活を、ぼくは脅かした。だからぼくは研究所に戻るんだ。それがぼくの償いになると思うから」
「償い?」
「そう。ぼくの細胞って、無限の可能性があるんだって。医療に活かせれば、たくさんの人が助かるって聞いたよ」
「そっか。だから償いなのね」
「極秘事項なんだ。その辺で勘弁してくれ」と長髪の男性が口を挟む。
「はぁい」とアキは首をすくめる。年相応の子どもみたいな仕草だった。
「――でも、アキくんだけの責任じゃないでしょう」
いさなは横目でアキを見て言う。
確かに細胞を渡したアキにも責任はあるだろう。
だが、一番償いをしなければいけないのは間違いなく春夜だ。彼が細胞を動物や昆虫に埋め込まなければ、こうはならなかった。
「あの人に関しては、おねえさんたちに任せるよ」
言われていさなは考え込む。
協会か特災課が春夜と雅乃を拘束した場合、ふたりはどうなるのだろう。
自分は、ふたりにどうなってほしいのだろう。
そしてもし、自分が2人に再会したら、自分はどうしたいだろう。
春夜と雅乃に抱く感情を、いさなはうまく言語化できなかった。
「着いたよ」
車が停まる。
いさなが車を降りると、目の前には苔むした石段があった。
「この上に、間違いなくいるね」
終わりが見えない石段を見上げて、アキが言う。
いさなは携帯端末を取り出し、戦闘に集中するために電源を切った。
――氷魚くん、どうか無事で。
いさなは黙って石段に足をかけた。茉理とアキも続く。
無言のまま石段を登る。両脇の木々から蝉しぐれが降ってくる。
数段上っただけで息が切れた。木陰なのに汗が吹き出す。荒い息遣いを隠そうともしないまま、いさなは歩みを進める。
熱があるのか、身体が燃えるように熱い。一歩足を動かすだけで痛みが走る。
無理だ駄目だと身体が悲鳴を上げているようだった。
無視する。石段があと何段あるかも考えない。
そうして、いさなは息も絶え絶えに石段を登り切った。視界が開ける。
境内のこじんまりとしたお社の前に、玉虫色の熊が仁王立ちしていた。いさなたちの気配を察知していたのか、すでに臨戦態勢だ。
昨夜いさなが負わせた刀傷は8割方塞がっている。すさまじい治癒力だ。アキの細胞のすごさを思い知る。
思えば、この熊も春夜の被害者だ。
アキの頼みというのも無論あるが、春夜の身内である自分が落とし前をつけるのがふさわしいように思えた。
いさなは大きく息を吐くと、刀を呼び出した。ベルトに差し込み、抜刀する。刀身が木漏れ日を受けて妖しく輝いた。
怪異を相手取る時にはいつもこの刀が喜んでいるように感じる。凍月は語りたがらないが、霊刀ではなく妖刀の類なのかもしれない。
だが、どちらでもいい。自分の力になってくれるのだから。
正眼に構えて、玉虫色の熊と相対する。
呼吸を整える。
身体能力の差は歴然だ。人は普通、力では野生の熊に勝てない。ましてや相手は玉虫色に侵食されているのだ。並の熊ではない。
しかし、戦いようはある。人には道具があるし、技がある。
そして、いさなは両方を備えている。
体調は万全からかけ離れているが、気力は萎えていない。
踏み込む。
白刃が煌めく。いさなが振るう刃が狙うは熊の首。いさなの狙いに気づいたのか、それとも反射的な行動だったのか、玉虫色の熊が防御するように左腕をかざした。
構わず振りぬく。
腕ごと、熊の首が宙を舞った。
――まだだ。
いさなは振りぬいた刀の刃を返す。
案の定、玉虫色の熊の動きは止まらない。桁外れの生命力だ。首のない玉虫色の熊は残った右腕を振りかぶる。
だが、遅い。
「おおおおおぉ!」
裂帛の気合と共に、袈裟懸けに刀を振り下ろす。熊の右肩から左脇腹にかけて、滑るように刃が走った。
飛び退く。
大きく揺らいだ熊の身体が、どうと前のめりに倒れた。




