死線の先④
「男の人と女の人。春夜と雅乃って名乗ってた」
予感と共に覚悟もあった。だから、アキが口にした名を聞いても、さほどの動揺はなかった。そのはずだった。
事情を知っている茉理が、そっといさなの肩に手を置いた。茉理の手の温かさが伝わってくる。
「――あいつらか」
黙っているいさなに代わり、凍月が口を開いた。
「あの人たち、強いね。2人と1体しかいなかったのに、研究所のみんなをあっという間に無力化しちゃったんだ」
「――殺したの?」
乾いた声で、いさなは尋ねた。雅乃はともかく、春夜ならやりかねない。
「死んだ人はいなかったんじゃないかな。たぶんだけど」
希望だが、そうであってほしい。これ以上春夜に人を殺めてほしくない。
「1体というのは?」
「猫の形をした何か、だね。ちょっとぼくには正体がわからなかった」
「凍月、知ってる?」
春夜が普通の猫を連れているわけがない。だが、いさなには見当がつかなかった。
「さぁな。ただの化け猫じゃなさそうだが」
「茉理さんは?」
「私もわからないわ。情報が少なすぎる」
「それより、春夜たちは、なぜおまえを連れ出したんだ」
今度は凍月が尋ねる。
「研究所しか知らないぼくに、外の世界を見せたかったんだって」
「外の世界……」
何か思うところがあったのか、凍月は小さく呟いた。
凍月は影無の身体に縛りつけられていて、自分の意思ではどこにも行けない。
考えてみれば、だいぶ不自由な思いをさせている。
影無が死んだら次の影無へと継承され、その流れが途切れることはない。
凍月は、再び自由を得たいと考えたりするのだろうか。
「それで?」と、気を取り直したように凍月が先を促す。
「春夜がぼくの手を取って、気づくとぼくたちは山の中にいた。門を創ったんだと思うんだけど、人が使う魔術にしてはあまりにもレベルが高すぎる。あの人たち、もう踏み外してるんじゃないかな」
それはもうわかっている。あの夜、春夜は一線を超えたのだ。
春夜の弟である彰也を殺して。
自分の望みを叶えるためなら、春夜は手段を問わないだろう。
「春夜は、ただきみを連れ出したかっただけなの?」
いさなが問うと、アキは首を横に振った。
「ううん。ぼくを解放した報酬として、細胞が欲しいって春夜に言われた。そっちが主目的だったのかもね。一方的だったけど、断る理由もなかったから、あげたよ。大体、握り拳1つぶんくらいかな。春夜はこれで研究がはかどるって、喜んでた」
「細胞って、まさかそいつが」
凍月の後を引き取って、アキは言う。
「村で暴れたぼくの分裂体になったんだろうね。どうやったのかはぼくでもわからないけど、たぶん、魔術で動物や昆虫と無理矢理融合させたんだと思う。昆虫に至っては巨大化までしてたね」
「春夜は、どうしてそんなこと……」
猿夢の件も、鎧武者に憑いていた蛇の件も、春夜が関わっている可能性が極めて高いと聞いている。真白と織戸の調査の結果だから、ほぼ間違いないだろう。
そして今回の件だ。
春夜が雅乃と失踪したのは4年前だ。今になって姿を現したのはなぜなのか。何が目的なのか。
わからない。
「理解しようとする必要はねえ。言うだろ、深淵をのぞく時はなんたらって。こっちまで狂気に引っ張られちまうぞ」
「春夜は、やっぱり狂気に呑まれたのかな……」
「じゃなかったら、かえって怖えよ。これが正気の人間のやることか? 彰也の件をわすれたわけじゃねえだろ」
彰也の名を聞いて、ふと、気になった。
「ねえアキくん。きみの名前と、顔だけど」
「名前は春夜がつけてくれたよ。顔は写真を見せられて、この子と同じ顔になれるかって――おねえさん、どうしたの?」
急にうつむいたいさなが心配になったのか、アキは気遣うような声を出す。
「――その写真って、4人の子どもが写ってなかった? 2人は男の子で、2人は女の子」
いさなの問いに、アキは即答する。
「写ってたね」
ああ、やっぱり。
いさなが持っている物と同じ写真だ。春夜はあの写真を持ち歩いているらしい。一体どういうつもりなのか。
いさなは拳を握る。
どうしてアキと名付けた。どうして彰也と同じ顔になれなんて言った。
何もかもをぶち壊したくせに。
今更取り戻したいというわけでもないだろう。
「あの写真がどうかしたの? ――そういえば、おねえさん、写真に写っていた女の子の面影があるね」
「気にしないで。続けて」
いさなは顔を上げた。
アキは何か言いたそうにしていたが、いさなの顔を見て口を閉じた。