玉虫色の死線①
追うか、それともアキの様子を見に行くか。
束の間逡巡し、いさなは寝室に戻ることを選んだ。
一定距離を離れると、凍月が強制的に影に戻されるからだ。そうなった場合、アキの身の安全は保障できない。
「アキくん、大丈夫!?」
部屋の出入り口でいさなが目にしたのは、巨大な玉虫色のカブトムシと、カブトムシの角にしがみついている凍月の姿だった。カブトムシが突入する際に壊したのか、壁に大きな穴が開いている。
いさなの倍以上もある、悪夢のような大きさのカブトムシが頭を振り、凍月が振り払われる。
「凍月!」
空中で器用に身をひねった凍月は、無事に床に着地した。
「平気だ。それよりこいつ、固えぞ」
凍月が無事のようで、ひとまず安心した。
しかし――
「アキくん、逃げて!」
アキは、呆けたようにカブトムシを見上げて棒立ちしていた。恐怖でついに正気を失ったのか、いさなの声にもまるで反応しない。
玉虫色のカブトムシが、アキ目がけて頭を振り上げる。
「――だめっ!」
床を蹴って、いさなは部屋に飛び込んだ。同時に、カブトムシの巨大な角が振り下ろされる。
右手でアキを突き飛ばし、いさなは左手に握った刀で角を受け止めた。
全身がバラバラになってしまうのではないかという衝撃だった。丸太でも受け止めたのかと思う。
「ぐ……」
身体が軋む。
両手で刀を握りなおしたが、立っていられず片膝をつく。大カブトムシからの圧力が増していく。押し返せない。力勝負では、どうあがいても勝ち目はない。
刃が角にめり込み、角度をつけて滑らせることもできない。このままではじり貧だ。
かといって、刀を消したらその瞬間自分は角に押し潰されてぺちゃんこだろう。この圧力では、飛び退く余裕はない。
凍月に魔力を回すか。
しかし、それは賭けだ。凍月に魔力を回す際に、どうしてもいさなは脱力する。その瞬間、押し負けて潰される可能性が高い。
「――?」
と、不意に、角がぐにゃりと変化した。刀がめり込んでいる部分が切り離され、いさなは勢い余って体勢を崩す。
大カブトムシが、頭を横に振りかぶる。尋常のカブトムシではありえない、不自然な頭の角度だった。
「いさな、避けろ!」
凍月の警告は間に合わなかった。
ハンマーのような形に変化したカブトムシの角が、無防備ないさなの身体を直撃した。魂が砕け散るのではないかという衝撃がきた。
「がっ……!」
ひとたまりもなかった。足が浮き、重力が消失した。視界が回転し、いさなは気づけば庭に倒れていた。
うめく。
震える足を叱咤し、離さずにいた刀を杖代わりにして立ち上がる。
どうやら、大カブトムシが開けた穴から外に放り出されたらしい。
「……ごほっ」
咳き込み、吐血する。身体のあちこちが痛み、どこがどういう状態なのか把握できない。呼吸をするたびに全身に激痛が走る。
「おねえさん、だいじょうぶ?」
アキと凍月が駆け寄って来た。
「――平気だよ。アキくんは、怪我はない?」
無理矢理、唇の端を持ち上げる。
「うん、おねえさんがかばってくれたから」
「そう、よかった」
正気も完全には失っていなかったようだ。
「いさな、おまえ――」
いさなを見た凍月が絶句した。自分はよほどひどい有様なのだろうか。
家の中から、のそりと大カブトムシが姿を現した。
それだけではない。
庭のあちこちから嫌なにおいがする。暗がりに無数の目が輝く。
玉虫色に染まった大きなカマキリが、クワガタが、イノシシが、シカが、光に向かう虫のように集まってくる。
「冗談きついぜ。何体いやがるんだよ……」
凍月がうめいた。
「あなたにしては珍しく弱気だね」
「おまえ、そんな身体で何言ってんだ。逃げるぞ」
「どうやって?」
「それは……」
全方位を包囲されていて、退路はない。凍月が本来の姿に戻るまで魔力を回せば活路は開けるだろうが、そんな余力は今の自分にはない。途中で衰弱して死ぬのが目に見えている。アキを守りながらでは、一点突破も難しい。
アキをかばいながら、この場で粘るしかない。
「大丈夫。わたしはまだ戦える」
満身創痍なのは間違いないが、両手が折れていないのは幸いだった。刀を握ることができる。
アキが不安そうにいさなに寄り添う。
いさなはアキの頭に手を置き、笑ってみせる。
「もうちょっとだけ我慢してね」
この小さな命を、守るのだ。
刀の柄を握りなおす。不思議と、力が湧いてくる気がした。
玉虫色の怪物の集団が、そんないさなをあざ笑うように一斉に鳴き声を上げる。
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
何度聞いても、神経を逆なでするような不愉快な声だ。
鳴き声は段々大きくなっていく。
いいだろう。ならばこちらも容赦しない。
この時ばかりは、自分が影無で、戦う力があってよかったと思う。
「上等だ! かかってこい! わたしが相手になってやる!」
夏の夜に響く冒涜的な鳴き声をかき消すように、いさなは吠えた。




