馬奈守村の怪⑧
刀を呼び出し、ベルトにねじ込む。いつでも抜刀できるように柄に右手をかけて、いさなは居間に踏み込んだ。途端、獣臭さと血の匂いが入り混じったような悪臭が鼻をつく。
身の丈2メートルを超える熊が、居間の中央に立っていた。
庭に面したガラス戸が無残に破壊されている。そこから侵入してきたようだ。
熊の半身は玉虫色の液体に覆われており、昨夜交戦した大カマキリ同様、表面には無数の目が見て取れた。ぎょろりと、目が一切にいさなの方を向く。
大カマキリなど問題にならないくらいの威圧感だった。相対しているだけで恐怖がこみあげてくる。
戦う時はいつもそうだ。怖くないときなんてない。しかも今は凍月がいない。自分だけだ。
だが、ひるんでなどいられない。ここで自分が戦わなければ、アキや村人に害が及ぶ。
自分が、守るのだ。
いさなは抜刀し、正眼に構えた。
玉虫色の熊は、いさなを威嚇するように両手を大きく振りかぶった。胴体、胸の辺りが蠢き、大きな口が出現する。
その口が、思わず耳を塞ぎたくなるような奇声を発した。
「テケリ・リ! テケリ・リ!」
こちらをあざけるような声だった。いさなは反射的に床を蹴って玉虫色の熊目がけて突っ込んだ。
最小限の踏み込みで最大限の速度を乗せた刀の切っ先を、熊の胴体に開いた『口』に突き入れる。
さしたる抵抗もなく、切っ先は熊の身体を貫通した。『口』から身の毛もよだつ悲鳴が漏れ出た。
一気に畳みかけるために、いさなは刀を引き抜こうとする。
が、抜けない。『口』が、玉虫色の歯でがっちりと刀を咥えこんでいた。
にやりと、『口』が口角を上げた。
――誘われた。
熊が、振りかぶった腕をいさな目がけて振り下ろす。鋭い爪が不気味に光る。あれにやられたら人間の身体など紙切れのように引き裂かれる。
いさなは素早く刀の柄から手を離し、後方に飛び退いた。ぎりぎりで目の前を爪が通り過ぎていく。背中を冷や汗が伝う。
熊が体勢を立て直す前に、いさなはジーンズのポケットに手を突っ込んだ。鋲を取り出し、熊の額目がけて指で弾く。道隆謹製の魔力鋲は熊の眉間に命中して小さな爆発を起こした。
ぎゃう! と、今度は熊の本来の口から怒声が漏れる。
致命傷には程遠いが、隙を作るには十分だった。
いさなは瞬時に間合いを詰め、胸ポケットから取り出した護符を胴体の『口』に叩きつけた。
護符が燃え上がり、青い炎が『口』を焦がす。
さすがに堪えたのか、『口』が噛みつきを緩める。いさなは柄に手をかけ、熊の腹を蹴って一気に刀を引き抜いた。
うなり声をあげ、駄々をこねる子どものように熊が闇雲に腕を振り回す。当たれば致命傷となる爪の攻撃をかいくぐり、いさなは刀を逆袈裟に振り上げた。
白刃が煌めき、退魔の刃が玉虫色の熊を斜めに切り裂く。
赤い血と玉虫色の液体を傷口から吹き出した熊が、大きく後ずさった。
赤い、血。
玉虫色の熊から流れる血の色に、いさなは戸惑いを覚えた。追撃のために踏み出しかけた足が止まる。
玉虫色に侵食されているとはいえ、元は熊で、自然の生き物なのだということを強く意識する。怪異に触れなければ、このようなことにはならなかったはずだ。
熊は戦意を喪失したのか、こちらの様子を窺うばかりで襲いかかってこない。
――わたしに斬れるのか。わたしは斬っていいのか。
いさなはつばを飲み込む。
ここで自分がやらなければ、別の許可証持ちがやるだろう。その間に被害が広がるかもしれない。
相手はすでに人を殺している。それに、手負いにした責任は放棄できない。
――わたしが斬る。
ためらいを振り切り、いさなは刀を上段に構えた。
その時だった。
寝室の方から、何かが壊れるような大きな音がした。
いさなの気が逸れた瞬間、熊は巨体に見合わぬ俊敏さで、自身が壊したガラス戸を踏みつけて外へと逃げていった。