馬奈守村の怪②
「茉理さん、玉虫色って?」
宗祇と細かな打ち合わせを済ませ、会議室を出たところでいさなは口を開いた。
「いさっちゃんは『マレウス・モンストロルム』へのアクセス権限は持ってないのよね」
「うん、持ってない」
『マレウス・モンストロルム』は協会の情報部が管理しているデータベースの1つだ。
古今東西、これまでに発見された汚れたものたちの情報が網羅されているらしい。閲覧には権限が必要で、協会に実績を認めてもらわないと許可が下りない。
「あれが使えると便利よ。この件が終わったら申請するといいわ。たぶん通るでしょ」
「だといいけど」
「いさっちゃんの実力なら大丈夫。それでね、玉虫色っていうのは――」
「その名の通り、玉虫色をした不定形の化物のことだ」
茉理の言葉を遮ったのは凍月だった。
「凍月ちゃん、ヒトのセリフを取らないでちょうだい」
「おまえがもたもたしてるからだよ」
「不定形って、どろどろしたスライムみたいな?」
また言い合いになりそうだったので、いさなは割り込むように言う。
「そうだな。あんな感じだ。元の見た目はでっかいアメーバみたいなやつだが、好きなように形を変えられる。だから、現時点でどんな姿になっているかは不明だな」
「分裂するの?」
「そういう特性はなかったはずだが、何分俺が出くわしたのはだいぶ前だからな。進化したのかもしれん」
「私も分裂するっていうのは知らないけど、だとしたら厄介よね」
「だな。人数をかき集めたのは正解だ」
公民館を出たいさなは立ち止まり、体育館に目を向けた。
「どうしたの、いさっちゃん」
「みんな、自分の家から避難してきたんだよね」
いさなの視線を追い、茉理は得心したようにうなずいた。
「そうね。みんなが早く家に帰れるように、頑張らなきゃね」
「うん。頑張る」
特災課のやり方には思うところもあるが、怪異によって日常を脅かされた人たちが一刻も早く元の生活に戻れるように尽力する。それが今、自分がすべきことだ。
「どこから探したものかしらね」
一旦車に戻り準備を整えて公民館を離れたところで、茉理は馬奈守村の地図を広げた。宗祇から受け取ったもので、人家の所在などが詳細に描かれている。
いさなは見るともなしに周囲を見渡す。
人気のない村は不気味に静まり返っている。
日はすでに山の影に隠れ、辺りは薄暗闇に包まれていた。本来ならばあるはずの生活音や車の音はなく、ヒグラシの鳴き声だけが響いている。
時折吹く風に生臭い臭いが混じっているような気がする。
肌寒さを感じ、いさなは腕をさすった。自分の第六感はまるであてにならないが、なんだか嫌な感覚だ。
「歩きで移動するのか?」
いさなの肩の上、姿を現した凍月が言った。
「そうよ。車だと入れないような場所もあるからね」
「おまえが元の姿に戻って飛んで探したらどうだ。いさなと俺を背中に乗せるくらい、いいだろ」
凍月が茶化すように言った。
「目立つのは嫌いじゃないけど、却下ね」
「なんでだ」
「味方に攻撃される危険性があるからよ。私の正体を知っているのは協会でもごく一部なの」
いさなも茉理の正体を知らない。強大な力を持ったあやかしなのは確からしいが。
「なるほどな。確かに、また弓で射落とされたらたまったものじゃねえな」
「もう、意地悪を言わないでちょうだい」
「――?」
いさながきょとんとしていると、茉理は「気にしないで」と苦笑する。
「古傷を凍月ちゃんにからかわれただけだから。――それよりいさっちゃんは、なにか案がある?」
「わたしは、玉虫色を探すよりも人家を回って逃げ遅れた人がいないか確かめた方がいいと思う」
宗祇からも頼まれていたことだ。
村人を発見した場合、場所を知らせれば特災課の職員が駆けつけて保護をしてくれる手はずになっている。
「そんな悠長なことでいいのかよ。ただでさえ俺たちは出遅れてるんだぜ。先に行ったやつらに獲物を取られちまうぞ」
凍月が不満そうに鼻を鳴らした。
「玉虫色を退治するのは別にわたしたちじゃなくてもいいでしょ」
「それじゃつまらん。茉理はどうなんだ」
茉理は少し考え込み、
「そうねえ。いさっちゃんの案でいきましょうか」と言った。
「え。わたし、茉理さんの指示に従うよ」
「いさっちゃん、あなたはもう独り立ちしてるのよ。胸を張りなさい。そこそこ立派なものを持ってるでしょ」
「……茉理さん、後半はおじさんのセクハラ発言だよ」
思わず胸を両手で隠し、いさなはじろっと茉理をにらんだ。
「あらやだ。ごめんなさい」
とにかく、と茉理は咳払いをして、
「私はいさっちゃんの案に賛成よ」と言った。
「ちぇ、わかったよ。ただ、もし玉虫色に遭遇したら俺にやらせろよな」
「ええ。頼りにしてるわよ、凍月ちゃん」
「ちゃん呼びはよせって言ってるだろ」
「だったら、私のことも茉理ちゃんって呼んでいいわよ」
「誰が呼ぶか気色悪い!」
ふたりの言い合いが静かな村に響く。
いさなの胸中には得体のしれない不安が渦を巻いている。
けど、このふたりといるのならば大丈夫。何も心配いらない。そう思うと、少しだけ、いさなの不安が和らいだ。