馬奈守村へ
「これから向かうのは、山間にある、過疎化の進んだ馬奈守村ってところよ。そこで怪異災害が起きたの」
走り出してすぐに、茉理は言った。
「内容と被害は判明してますか?」いさなは尋ねる。
「口調」
「――内容と被害は?」
一拍置いて、いさなは言い直した。
茉理はいさなの協会での師匠だ。見習い期間を終えて独り立ちする際に「敬語はもういい」と言われたのだが、以前の癖はなかなか抜けない。
「熊型の怪異、らしいわ。被害は不明。私もこっちに着いたばっかりで、詳しいことは聞いてないのよね。いさっちゃんに早く会いたくて、飛んできたの」
「ありがとう。私も茉理さんに会いたかったよ。一緒に仕事をするのが茉理さんでよかった」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
「で、熊の怪異っていうと、鬼熊あたりか」
いさなの膝の上に移動した凍月が言った。
鬼熊は、その名の通り熊の妖怪だ。歳経た猫が猫又になるように、長生きした熊も鬼熊となるという。確か、長野の方に伝わる妖怪だったはずだ。ここからはだいぶ離れているが、出現しないという保証もない。
「さあ? もしかしたら赤カブトかも」
「赤カブト?」
聞いたことがない。どんな怪異なのだろう。
「わからないなら気にしないでいいわ。これもジェネレーションギャップってやつかしらね。舞台にもなったんだけど」
茉理は寂しそうに言う。
「しかし、仮に鬼熊だったとしたら、わざわざ複数人を集めるか? 鬼熊は確かに強い妖怪だが、退治するなら腕利きの許可証持ちを1人派遣すれば事足りる。ひよっこしかいないのならともかく」
協会から正式に怪異と関わることを認められた者には許可証が与えられる。正式な呼称ではないが、許可証を持っている者は俗に『許可証持ち』と呼ばれる。
今回の任務で協会が声をかけた許可証持ちはいさなだけではない。茉理もそうだし、他にも何人かいるようだ。
怪異に対する凍月の目利きは確かだ。いさなは鬼熊と遭遇も戦闘もしたことはないが、彼が言うのならば、ベテランひとりで対応できるというのは間違いないだろう。
「そこなのよね。しかも今回、特殊災害対策課との合同任務なのよ」
「特災課との? 珍しいね」
特殊災害対策課は、怪異に対処するための組織だ。
政府の組織ではあるものの、一般には公表されておらず、存在を知る者は限られる。
構想自体はだいぶ前からあったらしいが、きちんとした組織として整備、設立されたのは戦後のごたごたが落ち着いてからのことで、歴史自体は浅いと聞いている。
少数精鋭といえば聞こえはいいが、いかんせん希少な特殊性を要求される業務内容のため、内実は常に人手不足でかつかつらしい。
即応部隊も擁してはいるが、日本全国で発生する怪異すべてに対処するなど土台無理な話で、どうしたって民間の力に頼らざるを得ない。
そこでいさなや茉理が属する協会の出番である。協会の歴史は古く、前身は戦国時代辺りに作られたらしい。
特災課側は、当初は民間に業務を委託することに抵抗があったらしいが、協会には積み上げたノウハウと実績がある。丁寧で確実な仕事ぶりに、特災課は協会の実力を認めざるを得なかったようだ。今では特災課はいいお得意様である。
確実な報酬が約束された依頼を回してもらえるだけでなく、本来であれば非合法の武器の所持や使用のお目こぼしなど、色々と便宜を図ってもらえるので、協会にとってはいいこと尽くめだ。
いさなが猿夢の件で文科省から学校側に働きかけてもらえたのも、裏で特災課を通していたからである。
「例によって、向こうからの依頼ね。ただ、今回はあちらからも人員を派遣してきたの」
「なんだろね。いつも丸投げなのに」
「よほどの事情があるのかもね。――それよりいさっちゃん、最近、どう?」
茉理の話題は、唐突に変わることが多い。ついていく方としては、思考の切り替えが大変だ。
「どうって、何が」
「私生活よ。何かいいことがあったんじゃない?」
「どうして?」
「顔、前より生き生きしてるわよ。かわいくなった」
「そうかな」
自分ではよくわからない。
鏡を見るのは好きではない。母譲りの、どこか陰のある目がこちらを見返してくるのが苦手だからだ。
「高校2年になったのよね。学校が楽しい?」
「前よりはね。――そうだ、部活を作ったんだよ」
「入ったんじゃなくて、作ったの?」
「うん。怪異探求部兼郷土部。略してキョーカイ部。まだ大して活動してないけどね」
「ユニークな部活ね。楽しそう」
「小僧の話はしないのか」
凍月が茶化すように口を挟む。
「小僧?」
適当にごまかそうと思ったが、茉理は興味津々といった顔だ。
「学校の後輩。橘氷魚くん」といさなは説明する。
「どんな子なの?」
「――弟みたいな子かな」
いさなに弟はいないが、いたらきっとあんな感じではないかと思う。無鉄砲で危なっかしくて、放っておけない。
「へえ、そうなんだ。部活を作ろうと思ったのは、その氷魚くんがきっかけだったりする?」
「なんで」
「わかるわよ。あなたの顔を見ればね」
茉理は楽しそうに微笑む。
かなわない。本当のお母さんよりお母さんだ。
いさなの母は、昔から自分の子どもにあまり興味を持てない人だった。
母ときちんと目を合わせて会話をした記憶が、いさなにはほとんどない。いさなが影無になったときですら――
「――ほんとはね、学校ではもう怪異に関わらないと決めてたの」
細い息を吐き出して、いさなは言った。
星山の件で懲りた。どうやったって、自分は器用には立ち回れない。取り繕ってもどこかでぼろが出る。
「でも、見過ごせなかったんでしょ。いさっちゃんはやさしいものね」
茉理が柔らかな声で言った。いさなはゆるく首を横に振る。
「凍月が、隣のクラスから奇妙な魔力の気配がするって教えてくれたとき、わたしは最初スルーした。依頼を受けたわけじゃない。わたしには関係ないって。そしたら次の日、被害者が増えた。――茉理さんは真白さんから聞いてるよね。猿夢だったの」
真白は、今現在鳴城で猿夢の調査をしている。織戸というベテランの魔術師と一緒に、アプリを作って葉山に渡したという『真犯人』を追っているはずだ。
いさなを横目でちらと見て、茉理はうなずいた。
「ええ、聞いてるわ」
「わたしがもっと早く動いていれば、被害は最小限で済んだかもしれない」
「それでも、みんなを助けたじゃない。死者は出なかったんでしょ。橘くんも含めて」
「結果的にはね。紙一重だった。――それで思ったの。もう見て見ぬふりはやめようって。学校でも、怪異に困る人の力になりたいって」
目を閉じて耳を塞ぐ方が楽だと思っていた。だが、違った。そちらの方がずっと苦しかった。だったら、奇人変人でも構わない、自分にできることをするだけだと開き直ったのだ。
「だから、部活を作ったのね」
「ええ、赤字続きなのが困りものだけど」
猿夢のときは正式な依頼ではなかったため、学校から報酬は出なかった。かかった経費は全部いさなの持ち出しだ。鎧武者のときも同様だった。
「偉いわ。師匠として誇りに思う」
「ありがとう。茉理さんにそう言ってもらえると、嬉しい」
茉理の前では、不思議と素直になれる。師匠だからというのもあるのだろうが、茉理が持つ包容力に安心するのだと思う。見習い時代、どれだけ茉理に助けられたことか。
自分は本当に、師匠に恵まれた。
茉理に褒めてもらえて嬉しい。
でも、といさなは思う。
自分ひとりでは、きっと無理だった。
氷魚と出会わなければ、自分はおそらく部活を作る勇気を持てなかった。
氷魚は、きっかけだったのだ。いさなが新たな一歩を踏み出すための。




