7月14日、いさな
7月14日のお昼休み、学校の踊り場でいさなは氷魚と昼食を食べていた。
氷魚のお弁当は彼の母親の手作りで、いつもおいしそうだ。いさなは母にお弁当を作ってもらったことがないので、少し羨ましく思う。
いつからか、昼食は氷魚と食べるのが当たり前になっていた。
以前の自分では考えられないなといさなは思う。
皆が楽しそうに友達と食べている教室の中で、ひとりで食事をすることが当たり前だったのに。
引け目を感じていたわけではないが、やはり寂しさはあった。
同じ場所でも授業中とはわけが違う。昼食時はクラスメイトの関係性が浮き彫りになる。誰と誰の仲がいいか。誰が孤立しているか。
高校に入学したばかりの頃、勇気を出して、女子生徒の誰かに声をかけようと何度も考えた。けれど、できなかった。
ありがたいことに、誘われることもあったけど応じられなかった。
嫌われたらどうしよう。変なやつと思われたらどうしよう。
そんな恐怖に囚われていたからだ。
小学校では失敗した。
冬の寒い日だったと記憶している。小学校6年生で、いさなが影無になって間もない頃だった。
校舎3階にある教室の窓から見える木の枝にあやかしが腰かけているのを凍月が見つけ、いさなは自分にも見えないかと木を凝視していた。存在感が希薄なあやかしだったようで、いさなには見えなかった。
よほど強大なあやかしならばともかく、存在の力が小さいあやかしは、自分からその姿をさらそうとしない限り、普通は人間には見ることができない。霊感が強い人間か、特殊な目を持った人間は別として。
そんな、遠見塚の人間ならば当たり前のように持っているはずの霊感や目を、いさなは持っていなかった。
影無になったことで、もしかしたらと思ったのだが、自分の目に変化はないようだといさなは内心失望していた。
それでも諦めきれず、じっと木を見つめ続けるいさなを不思議に思ったのだろう。クラスメイトが尋ねた。5年生から一緒のクラスで、仲がいい子だった。親友といっても差し支えなかった。
――いさなちゃん、木に何かいるの?
――うん、いるよ。
今思えば、油断していたの一言に尽きる。この子になら話してもいいと思ったのだ。
友達だから。心が許せる存在だから。
あの頃の自分はとにかく不安だった。親しい人を失ったばかりだったし、何より凍月という存在に慣れていなかった。誰かに、自分の世界の一端を知ってほしかった。
凍月が教えてくれたあやかしの外見を、いさなは具体的に説明した。友達の顔から血の気が引いていくのにも構わずに。
あやかしの存在を知らない人間との感覚のずれに気づくことが、当時のいさなにはできなかったのだ。自分の当たり前が、友達にとっては当たり前ではなかった。
次の日から、クラスメイト全員がいさなに話しかけなくなった。それは卒業するまでの数か月間続いた。
先生は気づいていたけど見て見ぬふりだった。自業自得なので恨んではいない。先生も、いさなのことが怖かったのだろう。
中学校でも失敗した。
1年生の、入学して間もないころだった。
学校の人気のない廊下で影の中にいる凍月と話しているところを目撃された。
同じ小学校の卒業生がいさなのことを吹聴していたのに加え、それが止めになった。
教室は針の筵も同様となった。
憐憫と嘲笑交じりの視線、安全地帯からの無責任な囁きがいさなを苛んだ。
――あたし知ってるよ。小学校の時からだよ。うそつきいさな。
――見えない誰かって、イマジナリーフレンドとかいうやつ?
――お化けとか見えるんでしょ。
――なにそれ。かまってちゃん?
うそはついてない。あやかしは本当にいる。
お化けは見えない。自分に宿る妖怪と話していただけ。
かまってなんてほしくない。ほうっておいて。
もちろんそんなこと、言えるはずがなかった。
学校に行くのがつらかった。身体に異常はないはずなのに、学校に行こうとすると吐き気がしたり、頭やお腹が痛くなったりした。
けれども、いさなは学校に通い続けた。半分以上は意地だった。
保健室登校とか、いっそ行かないとか、他にいくらでもやりようはあったと思う。しかし、当時のいさなは真っ向からぶつかる以外の方法を考えなかった。
そんなある日、ひとりの男子生徒が執拗に絡んできた。勉強も運動もできる、クラスの人気者だった。肝試しとか、そういうノリだったのかもしれない。後ろで仲間たちがにやにや笑っていた。
――遠見塚ってさ、見えるんだろ? おれの守護霊とか、見てくれない?
いさなが何も答えないでいると、男子生徒はなんか言えよといさなの肩を小突いた。
最初は軽く小突いていただけだったが、いさなが無反応なのが気に食わなかったのか、2度3度と繰り返すたびに男子生徒の肩を押す力はだんだん強くなっていき、ついには胸ぐらをつかもうとしてきた。さすがに看過できなかった。
迫る手を躱したいさなは軽く拳を握り、手の甲で男子生徒の顎先をかすめるように払った。男子生徒はすとんと、腰が抜けたみたいにその場にくずおれた。
一連の流れを遠巻きに見ていたクラスメイトたちが悲鳴を上げた。
男子生徒は、白目をむいて気絶していた。ピクリとも動かない男子生徒の姿を見ても、いさなはやっと静かになったとしか思わなかった。
終始、いさなは無言だった。
後日、双方の親が呼ばれる事態になったが、仕事であちこち飛び回っているいさなの両親はどうしても都合がつかず、代わりに大学生だった兄が来てくれた。
事情を聴いた兄は、男子生徒の親に謝らなかった。当然相手は激怒したが、兄は無抵抗な女の子の胸に手を伸ばしたあなた方の子どもが悪いの1点張りで頑として引かず、一部のクラスメイトの目撃証言もあって、ついには相手が折れた。
いさなは、自分の行動が間違いだとは思わなかった。自分を守るために必要な自衛だった。けれども、兄に迷惑をかけてしまったことは申し訳なく思った。
帰り道、ごめんなさいと謝るいさなに対し、兄は怒るでもなくこう言った。
――力はよく考えて使うんだよ。加害と被害は容易く入れ替わるのだから。
はっとした。自分は被害者のつもりだったが、いつしか加害者になっていたのではないか。
自衛のためとはいえ、気絶させたのはやりすぎではないのか。
一言やめてと言えばいいのに、その前に暴力に訴えたのはなぜか。
憂さを晴らしたかっただけではないのか。
胸の中を色々な感情が渦巻いた。
兄はそんないさなの胸中を知ってか知らずが、頭に手を乗せてやさしく笑った。
自分のあの時の行動が正解かどうか、いさなは今でも答えを出せない。
ただ、兄の言葉は今も胸に残っていて、怪異と関わる際の指針になっている。
加減したので男子生徒に怪我はなかったが、以降、クラスメイトは誰もいさなの方を見ようとしなくなった。憐憫と嘲笑は消え、代わりに恐怖が向けられた。
ほうっておいてほしいという希望だけはかなえられたが、結局、中学では友達はできなかった。
小学校は卒業が近かったからまだよかった。
中学校の3年間は、控えめに言っても地獄だったと思う。
中学生になってから見習いとして始めた怪異の仕事も最初は思うようにいかず、毎日が灰色だった。凍月や兄、仕事で知り合った人たちがいなかったら、折れていたかもしれない。
しかしいさなはどうにか中学を生き延びた。
高校に行くかどうかは、少し悩んだ。
高校に行かないで仕事に専念するという選択肢もあった。
だが、いさなは進学を希望した。理由は自分でもよくわからない。
学校に何かを期待していたわけではないと思う。ただ、このままでは学校そのものに負けた気がするのが嫌だったのかもしれない。
自分でも何かを成し遂げられると証明したくて、受験先はこの辺りでは一番難易度が高い鳴城高校の特進科に決めた。
猛勉強して、いさなが在籍していた中学からはほとんど進学者がいない特進科に合格した。
合格発表で自分の受験番号を見つけたとき、やった、と思った。心の底から嬉しかった。ひとりで初めて依頼をこなしたときと同じか、それ以上の達成感があった。
しかし、そうして入った高校だったが、入学してすぐに、いさなは自分が学校生活に対してひどく臆病になっていることに気づいた。
失敗が怖くて、とにかく悪目立ちしないように必死だった。話しかけられても、ひたすら無難な受け答えをするように徹した。
だというのに、また失敗した。
星山の心霊写真騒動だ。見過ごすことができず、首を突っ込み、結果自分の首を絞めた。
仕方がなかった。
あのまま放っておいたら、星山はもっとひどい怪我をしていた可能性があった。命だって危なかったかもしれない。
自己犠牲の精神なんてこれっぽっちも持ち合わせていなかったが、星山が助かったのならそれでよかったと思う。
小中に続いて高校でも孤立したが、悪いことばかりではなかった。星山と自然に話せるようになったのだ。同級生と普通に会話をするのは久しぶりだった。
ただ、星山の恋人の香椎ににらまれるので、そんなに長い時間は話せなかったが。
自分のせいで星山が香椎と喧嘩をするのを見るのは忍びない。
結局、昼食はひとりで食べ続けた。1年生のときはずっと。2年生のときは氷魚と出会うまで。
以前はひとりでも平気だった。少なくとも、平気なふりができた。けれども今、前と同じようにひとりで昼食を食べられるかと訊かれたら、即座にうなずくことはできそうにない。
自分は弱くなったのだろうか。
氷魚より先に食べ終えたいさなは、水筒のお茶を飲みながらそんなことを考えている。
やがて氷魚も食べ終えて、鎧武者騒動の話になった。
井戸の女性の供養の話題が出たところで、氷魚がしみじみとした口調で言った。
「――凍月さんて、なんだかんだやさしいですよね」
いさなの影から顔だけ出していた凍月は目を白黒させる。
「な……! こら小僧、言うに事欠いて、この俺がやさしいだと?」
いさなはこらえきれず吹き出した。当たってる。
「いさな、てめえ何笑ってやがる」
凍月が突っかかってくるが、照れ隠しなのが見え見えだ。
「面白かったから、つい」
「俺は面白くねえよ!」
凍月がふてくされたように言ったところで、いさなのポケットから音がした。
「――と、失礼」
携帯端末を確認する。『協会』からメールが来ていた。開く。
怪異災害発生。要即応。可能であれば至急集合されたし。
文面は簡潔で、後は場所が記されているだけだった。
楽しい昼食の時間はおしまいのようだ。
無茶をしがちな氷魚に言うべきことを言い、片づけを終えたいさなは、踊り場を後にしようとする。
「いさなさん」
背中に声がかかった。
「ん?」
振り向く。
「行ってらっしゃい。お気をつけて。無事に帰ってくるのを待ってます」
完全に不意打ちだった。この少年は、時々こういうことを言う。
わかっているはずなのに――
胸がじんわりと温かくなる。
「――ありがとう。行ってくる」
緩む頬を氷魚に見られたくなくて、いさなは顔を前に向けた。