寂寞の角度
「では織戸さん。そろそろ行きましょうか」
言って、真白が立ち上がった。
氷魚の方を一瞥すらせずに居間を出ていこうとする真白に向かって、氷魚は、
「姫咲さん」と声をかけた。
「はい?」と真白は足を止めて氷魚に目を向ける。
「ありがとうございました。織戸さんも、道隆さんも」
立ち上がった氷魚は、深々と頭を下げた。
「――私には、あなたに感謝される資格はありません」
なぜか、怒ったように真白は言った。
「資格?」
氷魚は頭を上げる。真白はやっぱり無表情だった。黒々とした瞳でまっすぐに氷魚を見つめる。
「本当は、高台で私はあなたを見捨てるつもりでした。自分の任務を優先しようとしたんです。あなたを放置して、あの人たちを追跡しようと考えた。あなたが獣に貪り食われても構わないと思ったも同じです」
春夜たちが消えた直後、真白が携帯端末を取り出した時だと見当がついた。あの時、真白は迷っているようだった。
無理もないと思う。出会ったばかりの男子高校生を助けるより、以前から探していた危険人物の追跡を優先しようとするのは当然だ。それが仕事なら、尚更。
しかし――
獣に貪り食われても構わないと思ったも同じ、と真白は口にした。
それは、実際には『思っていない』と同義ではないか。
だって、真白は氷魚を助けたのだから。
「おい、姫咲」
織戸が肩をつかむが、真白は止まらない。織戸の手を除けて、
「橘さん、あなたは言いましたね。私が正義の味方みたいだって。困っている人を見捨てようとする私のどこが正義の味方ですか」と挑むように言う。
真白は静かに怒っていた。怒りの矛先は氷魚ではなく、真白自身に向いているように見えた。
「でも、姫咲さんはおれを助けてくれましたよね」
「結果的にそうなっただけです」
「だったら、おれにとってはそれがすべてです」
「すべてって、なにが」
「姫咲さんがどう思おうと、姫咲さんがおれを助けたという事実は変わらないし、おれの、姫咲さんへの感謝の気持ちも揺るぎません」
「――」
「おれの考えなしの行動で、みなさんに心配と迷惑をかけました。見捨てられても文句なんて言えません。それでも、姫咲さんは助けてくれた」
「それはいさなに頼まれたから、――って、ああもう! あなたと話していると調子が狂います!」
真白はふいと顔を背ける。
「行きましょう織戸さん。まだ今日は始まったばかり。追跡の算段を立てます」
一方的に言って、返事も待たずに真白は居間を出ていった。
「珍しいものを見たな」
織戸が言って、
「だね」と道隆が同意する。
「おれ、姫咲さんを怒らせてしまいました……」
氷魚は肩を落とす。自分はただ、感謝の気持ちを伝えたかっただけなのだが。
「いや、あれは怒ってないぞ」
顎を撫でて、織戸は言った。
「そうなんですか? 毛を逆立てた子猫みたいでしたが」
「言い得て妙だな。まあ、心配ないさ。しかし橘くん。きみはいさなに対してもそんな感じなのか?」
「そんな感じっていうのがどんな感じかわかりませんが……」
「最近のいさなの態度を見る限り、そうだね」
道隆が楽しそうに言う。
「なるほどなあ」
織戸は納得したようにうなずいて、大きな手で氷魚の肩をばしばしと叩いた。氷魚はわけがわからないし、勢いよく叩かれた肩がかなり痛い。
「織戸さん、何やってるんですか」
玄関の方から真白の声がした。
「すぐ行く! ――じゃあな、橘くん。これからもそんな感じでがんばってくれ」
「そんな感じって言われても……」
ふんわりしすぎてよくわからない。
何がおかしいのか、わははと豪快に笑って織戸も居間を出ていった。
一体なんだったのか。
「初めてだったんだよ。いさなが家で高校の友達のことを話すのは」
唐突に、道隆が言った。
「一緒に部活を作ったって聞いたときは、耳を疑ったよ」
「初めてって、え、でも、星山先輩は?」
「? 聞いたことないな」
「――」
「以前はね、この家はとても賑やかだった。盆暮れ正月は言うまでもない。休みの日はみんなで楽しそうに遊んでた。遠見塚と分家の子どもたちの、束の間の休息だったんだ」
それが今は、と道隆は寂しげに嘆息した。
遠見塚がどういう家なのかはわからない。
ただ、凍月という大妖怪を代々受け継いできた一族ということだけは知っている。
凍月を宿すために、いさなたちは小さいころから過酷な訓練を受けていたのだろうか。
あまりになじみがなさ過ぎて、うまく想像できない。滝に打たれるとか、そういう修業とはまた違うだろう。
大きなお屋敷は、ひっそりと静まり返っている。かつて幼いいさなたちが遊びまわっていたと聞いても、その光景はやはりうまく想像できなかった。
「自分ではそうじゃないと思っていたけど、僕は妹に甘いらしい。氷魚くんの身の安全を考えるのならば、今すぐいさなとは距離を置けと言うべきなんだろうな」
道隆は真剣な顔で氷魚を見た。
「いさなはいろいろと至らない子だ。今回の件だけじゃなく、これからも、氷魚くんに迷惑をかけるだろう。それでも、一緒にいてほしい。改めてお願いする」
道隆が頭を下げる。
凍月の話を聞いた後、いさなに問われた。それでも一緒にいてくれるかと。
あの時と、自分の答えは寸分も変わっていない。
「もちろん。おれの方こそ、お願いしたいくらいです」
顔を上げた道隆が微笑んだ。
「ありがとう。――春夜の件に関しては、いずれいさながきみに話すかもしれない。その時は、聞いてやってくれるかな」
「わかりました」
「――うん。堅苦しい話はここまでだ。氷魚くん、朝ごはんはまだだよね。食べていくかい」
氷魚は道隆の料理の味を思い出し、一瞬断りかけたが、すぐに考え直した。
「はい、ごちそうになります」
この家は、かつてはたくさんの人間でにぎわっていたはずだ。
今では道隆ひとりになった。両親は滅多に帰ってこないという。いさなが顔を出すとき以外、道隆はひとりで食卓に向かっているのだろう。
道隆本人がどう思っているかはわからないが、それはとても寂しいことのように氷魚には思えた。
遠見塚家には、刃物で斬ったような鋭角の寂寞が刻まれていると感じる。
いさなと一緒にいること、道隆と食事をすること。
誰かに強要されたわけではない。自分が望んだのだ。
そうして自分が寂寞の角度を埋める、せめてもの一助になれれば幸いだと、氷魚は思った。
怪物は角度に潜む 終
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。4章終了です。
アクション色強めでしたが、いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけたのなら幸いです。
次の5章は今月中の投稿を予定しています。
それでは、またの機会に。