汝、角度を恐れよ➆
帰る前に麦茶でも飲んでいくといいという道隆の勧めに甘えることにした氷魚は、遠見塚家のだだっ広い居間でぼんやりと携帯端末を眺めていた。大きなちゃぶ台を挟んだはす向かいには真白がいて、扇風機に当たってくつろいでいる。
いさなにメッセージを送ったが、既読がつかない。携帯端末を見る暇もないほど忙しいのだろうか。
「お待たせ、どうぞ」
道隆が、お盆に乗せて持ってきた麦茶を氷魚と真白の前に置く。氷魚と真白は揃って礼を言った。
氷魚は麦茶を一口飲んで、「あの、道隆さんは、いさなさんの今回の仕事について何か知ってますか」と尋ねる。
「知ってるよ。なかなか大変な案件みたいだね」
どんな案件なんですか、とは訊けなかった。訊いたところで教えてくれるとは限らないし、知ったところで自分にできることはないからだ。
氷魚は残りの麦茶を一気に飲み干した。身体にしみわたる。
「いさなと凍月なら心配いりませんよ。茉理もついていますし」
麦茶を手に取って、一口飲んでから真白が言った。
「茉理、さん?」
「ええ、私の保護者です。とても頼りになるんですよ」
表情こそ変わってないが、口調から真白の茉理に寄せる確かな信頼が伝わってくる。
「どんな方なんですか?」
氷魚が訊くと真白は考え込み、
「――変わり者?」と言った。
なぜか疑問形だった。
「姫咲、武器の回収終わったぞ」
織戸が大きな背をかがめ、居間に入ってきた。改めて見ると、織戸は大きいだけじゃなく、筋骨隆々だ。シャツの上からでも胸筋のすごさがわかる。腕の筋肉も盛り上がっており、電話帳くらいなら楽々引き裂けそうだ。
「忘れてました。ありがとうございます。――あ、そうだ。織戸さん」
「なんだ」
「遠見塚春夜と天神沢雅乃に接触しました」
「! なに、どこでだ」
織戸だけではなく、道隆も驚いたように目を見開いた。
「城址の高台です。時の腐肉食らいが目当てだったようですね」
「――そういえば、あの人、舌の先端を切り取っていました」
氷魚が言うと、織戸は眉をしかめる。
「あいつら、またろくでもないことを企んでいるんじゃないだろうな」
「十中八九そうでしょう」
「おふたりは、あの人たちを追っていたんですか? その、猿夢の件とかで」
氷魚が尋ねると、真白はやはり無表情で、
「いさなに聞いたんですか?」と訊き返す。
「いえ、いさなさんは、ただ、猿夢の調査をしている知人におれの救援を頼んだとだけ。姫咲さんがあの人たちと城址で出会ったのは偶然っぽいけど、もしかしたらと思ったんです」
真白は織戸と一瞬視線を交差させた。
「葉山さんの家に聞き取りに行ったのも、姫咲さんと織戸さんですか。学校の中庭でカラスを使っておれたちを見ていたのも」
聞き取りにきたのは男女の二人組で、女性は小柄、男性は大柄と葉山は言っていた。真白と織戸の特徴と一致する。
そして中庭で氷魚たちを見ていたカラスだ。普通のカラスとは思えない。いわゆる使い魔だったのではないか。さっき門の上にとまっていたカラスに見覚えがあった気がしたのも、それで説明がつく。
ふたりは何も答えない。氷魚は構わずに続ける。
「あの春夜っていう人、猿夢と鎧武者の件を知っているみたいでした。経緯も結果も、全部。――猿夢アプリの開発だけじゃなく、鎧武者に魔術をかけたのもあの人なんじゃないかって、思うんです。おふたりはそれで調査してたんじゃないんですか」
春夜は氷魚が過去を見たことすら知っていた。どのような手段を用いたのか見当もつかないが、氷魚たちが監視されていたのは間違いない。
「あなたが知ったとして、どうするんです」
「謝りたいです」
「謝る? 誰に?」
「姫咲さんに。城址で、おれが足を引っ張らなければ、姫咲さんはあの人たちを捕まえられていただろうから」
「姫咲さんの実力は確かだけど、無理だったと思うよ」
間髪入れずに言ったのは道隆だった。
「ですね。私だけでは、あの2人と1体には勝てません。本気を出されていたら、私は今頃死にはしなくても病院でしょう」と真白が気を悪くしたふうでもなく言う。
「予期せぬ遭遇でした。準備不足だったので、正直、退いてもらって安心しましたよ」
「2人はわかりますが、1体? 何か他にいましたっけ。――あ」
思い当たる存在がいた。
「三毛猫……?」
「まあ、見た目はかわいらしい猫ですけどね」
「中身は違っていると?」
ふと、道場に並べられていた銃火器が気になった。あれらは最初から不浄の獣のために用意されたものだったのか?
銃火器はかなりの種類があった。入手手段はさておいて、いさなから連絡を受けてすぐに準備したものとは考えにくい。本来は、別の相手に使う予定だったのではないか。
「知らない方がいいと思います。――とにかく、遠見塚春夜と天神沢雅乃の件については、橘さんが負い目を感じる必要はありませんから」
負い目を感じる必要はない。代わりにこれ以上深入りするな。真白はそう言いたいのだろう。
「――わかりました。最後に一つだけ」
「なんでしょう」
「春夜――さんたちは、いさなさんと親戚だと言ってましたけど、本当ですか」
春夜は遠見塚と名乗った。いさなのもう一人の兄であるという可能性も、なくはない。ただその場合、親戚という言い方をするだろうかと言う疑問は残る。
「本当だよ。春夜は叔父の息子。天神沢は遠見塚の分家で、雅乃はそっちの子だね」
答えてくれたのは道隆だった。疑問が氷解する。
「小さいころ、4人はすごく仲が良かったんだ。傍目には、本当のきょうだいみたいに見えたよ」
その言い方に、引っかかるものがあった。
「道隆さんも混ぜて4人ですか?」
だとしたら、傍目という表現を使うだろうか。
「それは、まあ……」
道隆は言葉を濁した。ひょっとしたら、もうひとり誰かがいたのかもしれない。
そして、その誰かのことは、道隆は口にしたくないのかもしれない。
「――すみません。立ち入ったことを訊きました」
「いや、こちらこそ、はっきりとした物言いができなくてすまない」
「そうだ、橘くん。胸を見せてくれるか」
出し抜けにそう言ったのは織戸だった。
「え……?」
氷魚は思わず胸元を押さえた。織戸は苦笑する。
「いや、変な意味じゃなくて。汚れたものと遭遇するときに、痛むんだろ?」
そういえば、いさなに報告するときにそれも隠さずに伝えたのだった。
「そうです。鎧武者の亡霊とか、他の怪異のときは何ともないんですが」
「ふむ」
織戸はかがみこむと、氷魚の胸に右手をかざした。
「わ」
織戸の右手が、ぼんやりと光り出す。胸がなんだか温かい。
少しして、織戸は右手を引っ込めた。
「肉体はなんともないみたいだな。精神に穢れが混ざっている様子もない」
魔術を使った触診? みたいなものだったらしい。
「猿夢でカエルの怪物に刺されたのに関係があるんでしょうか。胸が痛みだしたのは、それからなんですよ」
「かもしれん。が、俺が診たところ、特に害はないみたいだな。気になるのなら、専門の施設で診てもらうこともできるが、どうする?」
そこまで大事にはしたくない。プロに問題がないと判断してもらったのなら、心配はいらないだろう。
「今のところ大丈夫です。便利なセンサーみたいなものなので」
「センサーって、面白い考え方だな」
「せっかくなので前向きに捉えようかなと」
汚れたものの接近を感知できるのなら、悪いことばかりではない。何かの役に立つかもしれない。
「そうか、わかった。痛みがひどくなったら遠慮なく言ってくれ。いさなに伝えてくれれば、手配する」
織戸はにっと笑う。男前な笑みだった。
「はい。その時は、お願いします」




