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この怪異は誰のもの?  作者: イゼオ
第四章 怪物は角度に潜む
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汝、角度を恐れよ③

 ベンチに座ったまま、氷魚ひおはしばらくぐったりしていた。セミの鳴き声がにぎやかだった。

 ようやく呼吸が落ち着いたところで、携帯端末を取り出して時間を確認する。まだ8時にもなってないが、今日は学校に行けるだろうか。どうしても無理で無断欠席したら家に連絡が行くかもしれない。念のため、言い訳を考えておこうかと思う。

 だが、いまはそれよりも――

 胸がずきりと痛む。何度嗅いでも慣れない、不愉快な匂いが鼻をついた。

 広場中央、東屋の柱の根元の部分から、青っぽい煙が立ち上っている。

 覚悟はしていたので、焦りはなかった。

 氷魚は広場を見渡す。いさなの知人どころか、相変わらず人っ子ひとり見当たらない。

 怪物に見つけられる前にいさなの知人と合流できればと思っていたが、甘かったようだ。

 広場を逃げ回ってもすぐに捕まってしまうだろう。とすれば、下に行くしかない。まだ生徒たちが登校中だが、凍月の言う通りなら、怪物の狙いは氷魚だけのはずだ。周囲の人間は狙われないだろう。

 生徒たちを驚かせてしまうのは避けられないが、そこは仕方ない。

 煙が怪物の姿を形作る。四足で、犬科の動物を思わせる形状だ。全身が青い膿のようなもので覆われている。長く伸びた舌の先は注射針のようにとがっていた。

 日の光の下で見る、完全な姿を取った不浄の獣は、おぞましい外見をしていた。

 全身から憎しみを発散させて、不浄の獣は氷魚をひたと見据える。

 獣から目を逸らさず、氷魚はベンチから立ち上がった。

 下りよう。下りて自転車で逃げよう。それが一番生き残る確率が高い。

 氷魚がそう決めた瞬間だった。

「間違いなく本物だ。嬉しいな。こんなところで時の腐肉食らいに出会えるなんて」

 横合いから声がした。

 見れば今まで誰もいなかったはずの場所に、男性と女性が立っている。女性の足元には、三毛猫がいた。さっきの猫だろうか。

 いつ現れたのか、全然気がつかなかった。

雅乃みやのもそう思うだろ?」

 男性が女性に話しかける。雅乃と呼ばれた女性はどうでもよさそうに肩をすくめた。

「私としては、目障りだからさっさとすり潰したいのだけれど」

「それはだめだよ。腐肉食らいが目をつけたのは彼なんだから。そうだろ、橘氷魚くん」

 名前を呼ばれて、呆気に取られていた氷魚は我に返った。

「あなたたちが、いさなさんのお知り合いですか?」

 タイミング的に、彼と彼女がいさなが救援を頼んだ人物なのかと思う。

 不思議なふたりだった。

 ふたりとも人目を引く容姿をしているのに、なぜだか存在感が希薄で、そこに『いる』という認識がうまくできない。焦点がぼやけるような感覚がある。

「知り合い? ああ、まあ、そうだね。知り合いっていうか、親戚だけど」

「親戚?」

「そう。僕は遠見塚とおみづか春夜しゅんや。そしてこっちは天神沢てんじんざわ雅乃みやの。よろしくね」

 春夜と名乗った青年はさわやかに微笑んだ。訊きたいことはたくさんあったが、今はそれよりも――

「あ、よ、よろしくお願いします。って、挨拶している場合ではなくて、怪物が……」

「時の腐肉食らいなら、ひとまずは大丈夫だよ。ほら」

 春夜は笑って獣の方を指さした。

「え――?」

 春夜が何かしたのか、獣は大きな見えざる手で上から押さえつけられているかのように、地面に伏していた。必死に抗おうとしているが、身動きがうまく取れないようだ。

「僕は運がいい。会おうと思ってもなかなか会えるものじゃないからね。遼丹りゃおたんを使うのは趣味じゃないしさ。橘くんが過去を見てくれたのは僥倖だったよ。思わぬ副産物だ」

 春夜は獣に近寄り、シャツの袖から小型のナイフを取り出した。

 かがみこむと、春夜はナイフで無造作に獣の舌の先端を切り取る。普通の武器では傷をつけられないはずなのに、ナイフはあっさり獣の舌を切断した。魔導具の類なのだろうか。

 春夜は切り取った舌をつまみあげると、雅乃に向けて嬉しそうに振って見せる。

「ほら見てよ。貴重な素材だよ。これで研究がはかどるぞぅ」

「はいはい。よかったわね」

 雅乃は呆れたようにため息をついた。

「つれないなあ」

 春夜はたすき掛けにしたウエストバッグから取り出したガラス瓶に舌を落とし、蓋をきっちりと締める。

「――あ、あの。ありがとうございます。助けていただいて」

 近くに戻ってきた春夜に、氷魚は頭を下げた。

「ん? お礼なんていらないよ。僕たち、きみを助けるつもりなんてないから」

「え、でも」

 地面に伏した獣は、苦しげにもがいている。どう見たって、助けてくれたと思うのだが。

「あ、ごめん。勘違いさせちゃったね。僕はこの子の身体の一部が欲しかっただけなんだ。もう帰るよ。なに、猿夢から生還したきみなら、今回も大丈夫だろ。無事に生き延びてくれ」

 春夜は気楽な調子で言うと、指を鳴らした。途端、それまでもがいていた獣が、束縛から解き放たれたかのようにすっくと立ちあがる。

「猿夢って、なんでそれを……」

「よそ見してると危ないよ」

 春夜が笑って忠告する。氷魚は慌てて獣に顔を向ける。身を低くした獣が氷魚目がけて跳びかかろうとし――

 どん、と腹に響く重低音が響き渡り、獣の頭が木端微塵に砕け散った。頭部を失った獣の身体がくたりと崩れ落ちる。

「な、な……」

 急変する状況に、氷魚は理解が追いつかない。一体何がどうなったのか。

「救援が間に合ったみたいだね」

 春夜の視線の先を追う。

 大型の自動拳銃を両手で構えた少女が立っていた。

「遠見塚春夜、天神沢雅乃ですね。あなた方には多数の魔術犯罪に関与した容疑がかかっています。おとなしく同行してください。抵抗するなら武力行使も辞しません」

 春夜に銃口を向けて、少女は凛然と告げた。

 外国人の血が混ざっているのか、少女は薄い褐色の肌をしており、どことなくエキゾチックな顔立ちだ。

 ショートボブはよく似合っているが、手にした大型の自動拳銃は小柄な少女にひどく不釣り合いに見えた。少女の服装がジャケットにハーフパンツという、日常の普段着だから尚更だ。拳銃だけが浮いている。

「僕たちに構っていていいのかい。きみは彼を助けに来たんじゃないのか」

 銃口を向けられているというのに、春夜はまるで動じていない。状況を見る限り、エアガンではないと思う。不浄の獣はあの銃で頭を撃たれたのだ。どんなに改造した銃でも、BB弾ではああはならないだろう。

「あなたには関係ありません」

「あるとも。大ありだ」

 春夜は氷魚の肩を軽い調子で叩く。

「僕は橘くんに死んでほしくない。いさなの貴重な友達なんだろ? だったら、まだ生きていてもらわなきゃ」

 なんなんだ、この人。底知れぬ不気味さを感じる。

「なら、あなたが助けたらどうですか?」

「それは僕の役目じゃない。この場では、僕は傍観者だからね。干渉は最低限にしないと」

「春夜、準備ができたよ」

 それまで側でぼんやりと佇んでいた雅乃が口を開いた。背後の空間が不自然に歪んでいる。目の錯覚ではない。

「うん。じゃあ、機会があったらまた会おう」

「逃がすかっ!」

 少女は春夜の足に照準して発砲した。しかし銃弾は春夜に届かず、直前で見えない壁に当たったかのように弾け飛ぶ。怪物すら撃ち抜いた銃弾だというのに。

「きみさ、そんな物騒な銃は捕まえようとする人間に向けるものじゃないだろ。僕じゃなかったら、今ので足が吹っ飛んでるよ」

「魔術師相手に加減は無用です」

 呆れたように言う春夜に、少女はそっけなく答えた。

 春夜は肩をすくめ、それから思い出したように、

「ああそうだ、橘くん。無事に会えたらいさなに言っておいてくれ。『猿夢と鎧武者の件、解決おめでとう。これからの活躍も期待してる』ってね」と言って歪んだ空間に身を躍らせた。雅乃と三毛猫も後に続く。ふたりと1匹の姿が、跡形もなく消え失せた。

 舌打ちした少女は携帯端末を取り出す。それから立ち尽くす氷魚に視線を向け、少し迷った様子を見せた後に携帯端末をしまった。

 氷魚はもはや言葉もない。

 ある程度不可思議な現象には耐性がついたと思っていたが、春夜たちはそんな氷魚をあざ笑うような芸当をしてみせた。

 種も仕掛けもある人体消失のマジックではない。これが本当の魔術なのだと突きつけられた気がした。

 そう――

「……魔術」

 氷魚は呆けたように呟く。

「そうですね。離れた場所に一瞬で移動する門を創る高度な魔術です」

 振り向く。油断なく銃を構えた少女が近づいてくる。

「あなたは割と冷静ですね。もっと取り乱すかと思いました」

「――いや、ぜんぜん。立て続けにいろいろありすぎて、ちょっと理解が追いつかないっていうか、理解したくないっていうか」

 角に潜む怪物、いさなの親戚だという『魔術師』、そして銃を持った薄褐色の肌の女の子。

 まだ今日は始まったばかりだというのに、脳の許容範囲を超えそうだ。暑さも相まって頭がくらくらする。

「無理もありませんね。――と、挨拶が遅れました。私は姫咲ひめさき真白ましろ。いさなに頼まれて、あなたを助けに来ました。このような外見ですが、日本生まれの日本育ちで、日本語以外話せませんのであしからず」

 少女はにこりともせずに言った。冗談かどうかの判断がつかない。

「橘氷魚です」

 氷魚は無難に名乗るだけにとどめた。

「では橘さん、早速ですが移動します」

「移動?」

「ええ、ほら」

 真白が銃口を向けた先には、頭部が再生しかけている獣の姿があった。真白は頭部に照準し、躊躇なく発砲する。耳をつんざくような轟音、獣の頭が再び弾け飛んだ。それから数発、発砲の反動をものともせず、真白は連続で獣に銃弾を撃ち込む。その度に獣の身体の一部が弾け飛ぶ。自動拳銃のスライドが下がったところで、獣は横向きに倒れ、そのまま動かなくなる。

「見ての通りですので」

「……倒したのでは?」

 獣はもはや原型を留めていない。ダメージを与えたということは、真白の持つ銃もまた普通の銃ではないのだろう。

 銃刀法違反という言葉が脳裏をかすめる。

 魔導具かどうかはさておいて、真白が持つ大型の自動拳銃はどう見ても現代日本でぶっ放していい銃ではない。

 銃声は間違いなく下にも響いた。誰か警察に通報したかもしれない。

「いえ。残念ながら、私の今の手持ちでは時間稼ぎにしかなりません」

 真白は空になったマガジンを排出すると、腰のポーチにしまい、代わりに新しいマガジンを取り出して滑らかな手つきで装填した。ジャケットをめくり、肩から吊るしているホルスターに銃を収納する。

「だから逃げます。戦略的撤退です」

 獣の身体から煙が立ち上る。煙は徐々に、身体を修復するように獣の形になっていく。

「そんな……」

 あれだけ撃って倒せないなんて、本物の怪物だ。

 ――本物って、今更だよな。

 他人事のように、氷魚は心の片隅で苦笑する。

「こっちです」

 真白に手首をつかまれ、氷魚は引きずられるように高台を後にする。

 蝉の声がうるさい。日差しは早くも今日の暑さを予感させる。

 現実離れした出来事が立て続けに起こったくせに、それだけは揺るがない。

 夏休みまで一週間を切った、7月16日の夏の朝だった。



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