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この怪異は誰のもの?  作者: イゼオ
第四章 怪物は角度に潜む
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汝、角度を恐れよ①

 7月15日の昼休み、2-5の教室に行った氷魚ひおは、いさなが欠席していることを知った。事前に聞いていたとはいえ、不安になる。

 携帯端末を取り出す。いさなからの連絡はない。

 こちらからメッセージを送ってみようかと考えたが、何もないのに送ったら迷惑かもしれないと思い直して、結局そのまま携帯端末をポケットにしまう。

 教室に戻り、自分の席に着いたところで、

「どうしたの。ついに先輩に告白して玉砕した?」と陣屋じんや幸恵さちえが話しかけてきた。

 今日の陣屋は左隣の席の児玉こだまと一緒にお弁当を食べている。入学から3か月以上が過ぎて、昼食を一緒に取る面子は固定されてきたが、陣屋は日替わりだ。蜜を求める蜂のように、あっちこっちさすらっている。

「やっぱり、そういうふうに見える?」

 真面目に答えるのもつまらないかなと思い、氷魚はわざとらしく肩を落としてみせた。

「え、マジなの? その……ごめん。元気出して、なんて軽々しくは言えないよね。先輩は、ほら、ちょっとハードルが高すぎたんじゃないかな」

「違う違う。遠見塚とおみづか先輩、今日は休みだったから」

 陣屋が急に真面目なトーンになったので、氷魚は慌ててネタばらしをした。

「なんだ、驚かさないでよ」

「痛っ!」

 思いっきり肩を叩かれた。

たちばなくんでもそういう冗談を言うんだね」

 そう言っておっとり笑ったのは児玉だ。猿夢騒動の時に一時的に失明したが、今はすっかり回復している。

「シャレになってなかったけどね」と陣屋が笑う。

「サチ、失礼だよ」

「いや、いいよ。大丈夫」

 からっとした言い方なので腹は立たない。氷魚は笑って、自分の席にお弁当を広げた。

「そうだ、橘くん。水鳥みどり先生って、教え方上手だね」

 きれいな箸使いでブロッコリーをつまみ、陣屋は言った。

「ありがとう。それを聞いたら姉さんも喜ぶよ」

 鎧武者騒動のあと、陣屋は結局真田塾をやめた。真田の接し方がバカ丁寧になったので、かえって怖くなったのだという。凍月いてづきと鎧武者の芝居が真に迫りすぎていたのかもしれない。妖怪と亡霊の警告を芝居と呼んでいいのかどうかはわからないが。

 なんにせよ、真田がストーカー行為をやめたのであれば、他の生徒への被害も未然に防げるので、結果的にはうまく収まったと思う。

 真田塾をやめた後、陣屋にどこかいい塾を知らないかと訊かれたので、姉がバイトをしている塾を紹介した。姉曰く、小さな塾だが、講師の質はよく、教え方も丁寧らしい。

 弟としては、姉が講師として働いている塾にクラスメイトが通うというのはなんだか気恥ずかしいが、陣屋に合っていたのなら、よかったと思う。

「橘くん、お姉さんいるんだ」と児玉が言う。

「いるよ。美人で教え方がすっごくうまいの」応えたのは陣屋だった。

 身内を手放しでほめられるのは、ちょっとくすぐったい。

「へえ、あたしもその塾に行こうかな。期末がイマイチだったから、夏休みは頑張らないと」

 梅雨はもうじき明ける。来週には夏休みが始まるのだ。

 高校生になっても、夏休み前というのはわくわくする。期末テストという試練を乗り越えた後だから、尚更だ。

 陣屋の依頼以外、活動らしい活動をしていないキョーカイ部だが、夏休みは何かあるだろうか。プール、いや、海に行ったりとか? 

 海といえば、鳴城の海にはお盆を過ぎると海坊主が出るという伝承がある。鳴城7不思議の1つだ。

 いさなの水着姿は無論見たいに決まっているが、海坊主には出会いたくないと氷魚は思う。いるいないで言えば、たぶんいるのだろう。

「無料体験があるから、受けてみれば?」

「うん、そうしよっかな」

 ふたりの会話には、都市伝説も怪談も出てこない。氷魚にはそれが何だか新鮮だった。

 ふと、いさなは今頃きちんと昼食を取れているだろうかと思う。

 危険な目に合っていなければいいけど――


 夜、学校の課題を片付けた氷魚は何気なく携帯端末を手に取った。

 意味もなくラインを開き、以前のいさなとのやり取りを眺める。明日は何時にどこどこ集合ね、とか、了解です、とか、どれもほとんど業務連絡みたいなもので、お互いスタンプも顔文字も使わないので非常に味気ない。

 そんなものだよなと思う。自分たちは、あくまで同じ学校に通う先輩と後輩なのだから。

 携帯端末を机に置き、氷魚が大きく伸びをしたときだった。

「――っ!」

 不意に胸が痛んだ。同時に、名状しがたい刺激臭が鼻をつく。この悪臭には覚えがある。かんざしから溢れた光に呑みこまれ、過去の出来事を目撃したときだ。

 あのときも胸が痛み、同じ臭いを嗅いだ。

 痛みで前のめりになった氷魚の視界の端に、煙が飛び込んできた。まさか火事にでもなったのかと、焦って煙の元をたどる。

 部屋の、角だった。出入り口近く、本棚と壁の隙間から、煙が出てきている。

 ありえない。なんであんなところから。

 氷魚が呆然としていると、煙の中に緑色の目玉が浮かび上がった。ぎょろりと、目玉が氷魚を捕らえる。

「……!」

 氷魚が目玉から感じたのは、むき出しの憎悪と悪意だった。氷魚だけではなく、人そのものを憎んでいるような害意に鳥肌が立つ。

 煙は粘度を持っているかのようにとろりと形を変え、やがて緑の目玉の中心に『何か』の頭を形作った。

 最初、それは犬の頭のように見えた。

 だが、違う。

 決定的に、どうしようもなく、犬じゃない。犬の舌は1メートル以上伸びたりなんかしないし、嫌な匂いのする液体を身に纏っていたりしない。

 いつか観た映画に出てきた、南極基地を徘徊する犬の姿をしたグロテスクな『物体』を彷彿とさせる。

 氷魚にはこいつの名前も正体も無論わからない。

 けれども、直感する。

 これは不浄の獣――汚れたものだ。

 氷魚はとっさに机の横に引っ掛けてあるリュックからお守りを取り出した。何かあった時のためにといさなに貰ったもので、中には護符が入っている。

 頭だけではなく、徐々に獣の身体も形作られていく。完全に出現したらどうなるか、考えたくもない。ぐずぐずしている暇はなかった。

 氷魚はためらわず、お守りを獣めがけて投げつけた。

 ぎゃう! と、不浄の獣は耳障りな悲鳴を上げた。

 お守りが燃え上がり、青い炎で煙を包み込んでいく。

 ほどなくして炎が消える。後には、何も残っていなかった。護符の効果なのか、臭いも、獣がまき散らした液体も、きれいに消えていた。

 追い払えた、のだろうか。

 氷魚は胸に手を当てる。恐怖のせいか動悸がひどいが、痛みは治まっていた。

 大きなため息を吐き、ベッドに腰かける。

 なんなんだ、一体。

 あんな怪物に襲われる心当たりなんてもちろんない。また誰かが魔術で攻撃でもしてきたのだろうか。だが、誰が、なんのために? そもそも、攻撃なのか?

 自分が過去の光景を目撃したときにも同じ臭いを嗅いだが、何か関係はあるのだろうか。

 胸の痛みも、そうだ。どうやら汚れたものと遭遇する際に痛むらしい。夢の中で怪物に刺されたせいなのか。

 どれもこれも、考えてもさっぱりわからない。

 机の上の携帯端末が目に入る。

 そうだ。なにをぼんやりしているのか。

 いさなだ。いさなに連絡しなくては。

 立ち上がった氷魚は携帯端末を引っつかみ、いさなの番号を呼び出して電話をかける。夜も遅いが、遠慮している場合ではない。一応撃退はできたみたいだが、相手は怪物だ。何があるかわからない。電話して、対処方法を聞いておきたい。

 しかし、電話は繋がらなかった。

 コールが10回を超えたあたりで、氷魚は電話を諦めた。

 簡潔に今起こったことをまとめて、ラインでメッセージを送る。

 およそ10分間、祈るような思いで携帯を握りしめて待ったが、何回確かめても既読はつかなかった。

 手が離せないような状況なのだろうか。そう思った途端、いさなが心配になった。

 自分が心配してもどうにもならないことはわかっている。

 いさなはプロだ。凍月もついている。危険があっても、彼女たちならいくらでも切り抜けられる。

 猿夢のときも、鎧武者に憑いていた蛇と戦ったときも、いさなたちは勝った。

 ふたりは、間違いなく強い。

 だから、大丈夫。

 氷魚は自分に言い聞かせ、椅子に腰かけた。

 今心配すべきは自分だ。

 怪物がまた出てきたらどうするか。お守りはもうない。自分1人を狙ってくるのなら外にでも逃げればいいが、そうじゃなかったら?

 今すぐ家族に怪物の存在を話しても信じてもらえるとは思えない。

 ――部屋の角から火事でもないのに煙が出てきて、犬みたいな怪物になったんだよ。危ないヤツだから、今すぐ逃げて。

 家族会議待ったなしだ。虚言を疑われる前に正気を疑われるかもしれない。心配されて、カウンセリングに行きましょうとか言われるのがオチだ。それが普通の反応だと思う。自分だって、いさなと出会ってなかったら怪物なんて信じない。

 だが、怪物が出てから家族に信じてもらっても遅いのだ。

 念のため、今晩はずっと起きていた方がいいかもしれない。

 怪物が自分だけを狙うのならば逃げる。そうでないのならば、なんとしてでも家族を逃がす。あとでどれだけ怒られてもいい。火事だと叫んで逃げてもらおうと決めた。

 部屋を見渡すが、武器になりそうなものはない。キッチンから包丁でも持ってこようかと思ったが、怪物に通用するか怪しいし、手が滑って怪我でもしたらバカバカしいのでやめにした。

 携帯端末を机の中央に置き、氷魚は椅子の背もたれに体重をかける。

 じっとりとした、嫌な汗が腋を伝う。

 緊張のせいか、やけに喉が渇く。

 我慢しきれず、氷魚は階下に降りて2Lペットボトルのお茶とコップ、ついでに魔除けになるという塩を持ち出した。瓶に入った食塩だが、ないよりはマシだろう。

 机の上にペットボトルをどんと置き、脇に食塩を添える。

 コップに注いだお茶を飲み干し、口元をぬぐう。

 時刻を確認すると、まだ0時を過ぎたばかりだった。

「きっついな」

 思わず独り言がもれた。

 怪物は来るのか、来ないのか。

 精神がじわじわ削られるような緊張感を、いつまで保っていればいいのか。

 長い夜になりそうだ。


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