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この怪異は誰のもの?  作者: イゼオ
第四章 怪物は角度に潜む
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失われた食卓

 アラームが鳴っている。

 ベッドの上で、いさなは地獄の獄卒ごくそつに責め苦を受ける罪人のようなうめき声を漏らした。仰向けで頭上に手を伸ばすが、あるはずの携帯端末がない。音のする方を見れば、寝ている間に叩き落としたのか、携帯端末は床に転がっていた。自分の寝相の悪さが恨めしい。

「……凍月いてづき、携帯拾って」

 起き上がるのが億劫で、いさなは身の内に宿るあやかしに呼びかける。

「知るか。自分で拾え」

 頭の下あたりでそっけない返事があった。さすが大妖怪だ。血も涙もない。

「いじわる」

 いさなはのっそりと身を起こすと、無慈悲な音を立てつづける携帯端末を拾い上げてアラームを止めた。

 こういう時、念動力ねんどうりょくが使えたらなと思う。手で触れなくても物を動かせるのは絶対便利だ。

 しかし、それはそれでぐうたら生活待ったなしな気もする。ひとり、念動力を持った知り合いがいるが、どういう生活を送っているのだろうか。

 携帯端末をテーブルの上に置く。

 部屋にはむっとするような熱気が篭っている。

 寝ぼけ眼で窓を開けると、元気な蝉の声が飛び込んできた。

 梅雨明け間近の夏の朝だった。今日も暑くなりそうだ。

 100均で買ったコップを生ぬるい水道水で満たし、一気に煽る。

 すぐに動くべきとは思いつつも、扇風機の前に座り込んでしまう。ぬるい風が心地いい。

 できればエアコンが欲しいが、自分の稼ぎではなかなか手が届かない。この扇風機だって、実家の物置に眠っていた年代物を拝借してきたのだ。

 いさなの今の収入では、1Kで月3万5千円の部屋を借りるだけでも精いっぱいだった。

 お金が貯まらないのは稼ぎの大半が食費と仕事に使う魔導具まどうぐ代に消えているから、という事実には目をつぶる。

 食べることはなによりも優先されるし、魔導具も魔術が使えない自分にとっては生命線だ。どちらも生きるために必要なのだ。

 もっと仕事をこなさなくてはと思う。

 遠見塚とおみづかの名前だけで仕事が回ってくるほど甘い世界ではない。むしろ、いさなの場合、遠見塚の名は足を引っ張る要因にもなっていた。


 ――曰く、当代の影無かげなしは魔術も使えぬ無能。凍月がいなければ何もできない。それもそのはず、『間に合わせ』だから。


 遠見塚と凍月の存在は切っても切り離せない。

 さして広くもない界隈で大妖凍月を宿す影無が注目されるのは避けられず、その影無が魔術の1つも使えない小娘とあっては馬鹿にされるのも仕方がない。

 人の世の常識が通じない怪異と関わるにあたって剣術よりも魔術の腕が重視されるのは自然なことで、そういう意味では妥当な評価ではあった。

 剣術はできないよりはできた方が無論いいが、それよりも魔術が肝心。戦うばかりが解決策ではない。

 周りの大人は皆、口を揃えてそう言った。

 いさなに異論はなかった。

 いさなは遠見塚の人間にしては身に秘めた魔力の総量が少ない。そのなけなしの魔力も凍月の維持に費やされるため、魔術の行使に回す余裕はどこにもなかった。さりとて、念動力のような超常の力を持つわけでもない。

 魔術や超常の力を行使する影無は、過去にいくらでも存在した。むしろ、使えない方が珍しい。

 つまり、いさなには絶望的に才能がなかったのだ。本来であれば影無になんてなれない。

 間に合わせという揶揄やゆ正鵠せいこくており、正しくいさなは急場しのぎの影無だった。

 周囲の言葉に傷つき、自分ひとりでは何もできない能無しだとかつては己の不甲斐なさを嘆いた時期はもちろんあった。

 しかし、それでは何も解決しないので吹っ切った。後押ししてくれたのは、皮肉にも悩みの原因になっていた凍月だった。


 忘れもしない。そこまで難易度の高くない調査依頼を受けた時だ。自分の不注意で怪異を活性化させてしまい、結果、しなくてもいい戦闘をすることになった。

 依頼を解決はしたが、しこりが残ったいさなは自分にもっと才能があればと凍月にこぼした。

 怪異を力任せに斬り伏せるのは本意ではない。他に解決方法があるのならそちらを選びたい。そのために魔術の才が欲しい。そして、凍月を身に宿してなお余りある魔力が欲しい。

 いさなの嘆きを聞いた凍月は鼻で笑ってこう言った。

虫唾むしずが走る。おまえはいつまで悲劇の主人公を気取ってるんだ。生き延びるために選んだ道じゃなかったのか。ま、俺を重荷に感じているのならやめるのは簡単だぜ。ここで腹を斬れ。そしたら後は俺が喰ってやるよ。骨一本、血の一滴残さずにな』

 自分は生きるために凍月を身に宿したのに、それでは本末転倒だ。冗談じゃないといさなは憤り、だったら這いつくばってでも生きてみせろと凍月は言った。

 そう、いさなは凍月を選んだのだ。選ばないという選択肢もあったが、その場合、いさなは殺されていたに違いない。――思いを寄せていた人に。

 影無として生きるか、好きな人に殺されるか。

 単純な二者択一で、いさなは前者を選んだ。だから、いさなは凍月と共に生きるべきなのだ。

 これまでに、剣だけではどうにもならない、凍月の助けがなければ解決できない案件は山ほどあったし、魔術が使えれば回避できたはずの危機を何度も経験してきた。

 それでも自分は生きている。生き延びると決めて、事実それを証明してきた。

 凍月におんぶにだっこという陰口は夏場のはえのようにしつこくつきまとっているが、依頼を確実にこなすたび、周りの自分を見る目は少しずつ変わってきていると思う。


「髪はぼさぼさ、寝間着はしわくちゃ。こんなだらしねえ姿、あいつには見せられねえな」

 いさながぼけっと扇風機に当たっていると、勝手に実体化した凍月がからかうように言った。

 あいつとは誰のことか。

 寝起きでまだぼんやりした頭では、すぐにはわからなかった。

「……氷魚ひおくんは関係ないでしょ」

 ようやく、人の良さそうな少年の顔が思い浮かんだ。

「おや、俺は小僧とは一言も言ってねえぞ」

 にやりと、凍月は意地の悪い笑みを浮かべる。

「――」

 言い返そうとして、いさなは空腹を覚えた。お腹を押さえて立ち上がる。

 無言で冷蔵庫を開け、手近なところにあったトマトをむんずとつかむ。昔なにかで見たドラマのオープニングみたいに、そのままかぶりついた。

 トマト片手に食パンを2枚、トースターに突っ込む。さらにトマトを一口かじる。物足りないので塩をかけてもう一口。

 かじりかけのトマトを皿に乗せ、再び冷蔵庫を開けて牛乳を取り出しコップになみなみと注ぐ。冷蔵庫の扉を押さえたまま、一息で半分ほど飲み干す。

 魚肉ソーセージを見つけたので、それも食べることにした。手に取って、ようやく冷蔵庫の扉を閉める。コップをテーブルに置いて、包装を破りにかかる。先端がうまく取れない。

 めんどうになったので真上に放り投げて呼び出した刀で先端を斬った。納刀して、ソーセージをキャッチする。

「せめてハサミでやれよ。行儀が悪いぞ」

 呆れたような凍月の声は無視して、包装を取っ払ったソーセージをかじる。安物なのであまりおいしくない。

 残り半分になったソーセージをトマトと同じ皿に乗せ、いさなは弁当作りに取り掛かる。といっても昨晩の残り物と冷凍食品、そして炊飯器のご飯を弁当箱に詰め込むだけだ。

 そうこうしているうちにパンが焼けた。焼けたパンを皿に乗せて、空いたトースターに追加の食パンを2枚突っ込み、いさなはようやくテーブルの前に腰を落ち着ける。

 小さな円形のテーブルだ。リサイクルショップで買ったもので、足がちょっぴり剥げている。

 この間、たちばな家でごちそうになったご飯はおいしかったなと思う。何より、誰かと囲む食卓は温かかった。道隆みちたか以外の家族と食事を共にすることは、絶えて久しい。

 実家の大きなテーブルを、みんなで囲んでいたころをふと懐かしく思う。

 今はもうない、失われた食卓だ。


「どうしたいさな、ぼんやりして」

 凍月の声で現実に立ち返れば、目の前には冷めかけたトーストがあった。

「なんでもない」

 ジャムの瓶に手を伸ばし、残り少ない中身をこそげ取るようにスプーンですくってトーストに乗せた。できるだけ伸ばして広げる。

「いただきます」

 手を合わせ、いさなはトーストを平らげにかかった。


 身支度を整えたいさなは家を出る前に、戸棚の上の写真立てに目を向けた。道隆が撮ってくれた写真だ。

 写真の中では、2人の少年と2人の少女が楽しそうに笑っている。

 1人は12歳のいさなだ。凍月と出会う前、これから先何が起こるのか知らない昔のいさなは、屈託のない笑顔を見せている。

 あの頃の自分たちは、間違いなく幸せだった。前途に不安はなく、すべてがうまくいくと思っていた。けど、そうじゃなかった。少年のひとりは死に、もうひとりの少年と少女は姿を消し、いさなだけが残された。


『ぼくが凍月を引き受けるからさ、みんなは好きなことをするといいよ』


 そう言った彼は、今どこで何をしているのだろうか。才気にあふれ、周囲の誰もが次代の影無間違いなしだと目したあの人――

 案外近くにいて、自分が好きなことをしているのかもしれない。


 ――好きなこと。


 小学校の卒業アルバムの将来の夢に、いさなはパティシエールと書いた。単純に甘いものが好きで、お菓子を作る人になりたいと考えたのだ。小さい頃に流行っていた、主人公がパティシエールを目指すアニメも影響していたと思う。パティシエとパティシエールの違いもそのとき知った。フランス語でパティシエは男性の菓子製造人で、パティシエールはその女性形だ。

 将来の夢にパティシエールと書いた女子は、いさな以外にもかなりいたはずだ。

 書いた時点で、おそらく叶わない夢だという自覚はあった。けど、もしかしたらという淡い期待もあった。

 そんな期待はもう完全に消え失せた。

 大人になっても、自分は刀を振るい続けるのだと思う。しかしそれは悲しいことではない。自分が選んだのだから。選んだ道を行くことを後悔したくはない。

 だから前を向く。時々立ち止まって振り向くことがあっても、進み続ける。


「行ってきます」と写真に言って、いさなは家を出る。



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