橋の上に立つ姫君⑯
「――おい! おい小僧! 聞こえるか?」
ぴたぴたと、誰かが頬を叩いている。この感触は覚えがある。猫の肉球の感触だ。祖父の家で飼っている猫は肉球を触られるのを嫌がるが、遊びに行くたびについ触ってしまうのだ。
氷魚は手を伸ばし、なおも己の頬を叩く肉球をつかんだ。揉む。いい感触だ。
「こら、気安く触るんじゃねえ! つーか、おまえ起きてるだろ!」
目を開けた。こちらを覗き込んでいる凍月と目が合う。隣には、心配そうな顔をしたいさなが膝を着いていた。
「……おれ、どうしたんです?」
身を起こす。見れば頭があった位置にいさなのリュックが置かれていた。自分は寝ていたのだろうか。
「こっちが訊きたいよ。簪が光るなり急に倒れるから、びっくりした」
どうやら、自分は気を失っていたらしい。すると、今見た光景は――
「――ああ、そうか」
「身体、なんともない?」
「ちょっと後ろ頭が痛いです」
「倒れた時に打ってたからな。いさなが膝枕してやれば治るんじゃねえか?」
凍月が実に魅力的な提案をしてくれる。
「いいですね、それ」
「――氷魚くん?」
氷点下の声だった。調子に乗ってはいけないと思う。
「冗談です。それより」
氷魚は握りしめていた簪を持ち上げる。
「鎧武者の謎が解けたと思います」
いさなと凍月が顔を見合わせる。それからふたりほぼ同時に氷魚に向かって、
「どういうこと?」「どういうことだ?」と尋ねる。
「実は――」
「なるほど」
氷魚の話を聞き終えたいさなは、顎に手を当てた。
「氷魚くんが見た光景が過去にあった出来事だとするならば、大体の謎は解けそうね」
「簪に込められていた想いが、小僧に過去の映像を見せたのかもな」
「魔術か何かですか?」
「いんや。その簪に魔術はかけられてねえよ。けど、人の想い、念がこもったことにより、魔導具みたいなものに変質してたんじゃねえか」
氷魚は簪を眺める。光はすでに収まっていて、きれいだけど何の変哲もない簪にしか見えない。
「鎧武者の亡霊の正体は、姫様に簪を贈った男性ですよね」
「氷魚くんの話を聞く限り、そうだと思う。姫が亡くなったことを知って、絶望のあまり自分の首を……といったところかしら」
「にしても、恋敵とはいえ自分の主人を殺すか。やっぱ人間の女は怖ぇな」
「――それは、違うと思います」
「あん? なにがだ? 女は怖えだろうが。いさなとか」
「いえ、それは……」
確かに、時々怖い。
「氷魚くん?」
ほら、こういう時だ。それはそうと――
「おれが違うって言ったのは、恋敵についてです」
「ん? つっても、おまえが見た通りなら、姫さんと鎧野郎はいい感じで、井戸女がそれに嫉妬してたんじゃねえの? 現に、井戸に身を投げる前に好きだったって口にしたんだろ」
「そうです。でも、恋敵の相手が違うと思うんです」
「相手? 姫さん以外に誰かいるのかよ」
「鎧武者です」
「は?」
「――ああ、そうか。そういう可能性もあるか」
いさなが納得したように呟いた。
「井戸の女性は、姫様のことが好きだったのね」
「はい。男性に向けた目が、なんていうか、昏い炎みたいだったんです。おれは、そういう機微はよくわからないけど、あれは嫉妬だったんじゃないでしょうか。自分が好きな人と仲良くする人に対しての」
唐突に、星山の人の良さそうな顔が氷魚の脳裏をよぎる。
理由はすぐにわかった。
初対面の時、自分は、いさなと仲良く話す星山に間違いなく嫉妬した。恋愛とはまた別種の嫉妬だとは思うが――
「だってよ、それって……。いやまあ、そういうこともあるか、うん」
凍月は器用に腕を組む。
「井戸女にとって、姫さんはいろんな意味で手が届かない存在だった。どうやっても手に入らないのなら、いっそってとこか」
「最初、女性は姫を殺そうなんて考えてなかったように見えました。ただ、幸せの象徴である簪だけを取り上げたかったんだと思います。井戸の中で言ってたじゃないですか。謝りたいって」
ふたりが幸せそうで、だから妬ましくて、簪を取り上げて、けどそれだけじゃおさまりがつかなくて――
なんであんなことになったのか、井戸の女性もわからなかったのではないか。自分はただ姫が好きだっただけなのにと思ったのではないか。
どうしようもなくて、結局自分も命を捨てるしかなかった。そんなふうに、氷魚には見えた。
「だとしても、殺したっていう事実は消えねえよ。殺した後に謝ったって遅えんだ」
凍月は吐き捨てるように言った。
こうして話していると忘れがちだが、凍月はたくさんの人を殺めた大妖怪なのだ。しかし、今の凍月にそういった凶暴性は感じない。
凍月が人を殺して回っていた理由はわからない。凍月は悔いているのだろうかと、ふと思う。
「自分の命を断とうが、償いになんてなりゃしねえ」
そう言った凍月は、どこか悲しそうだった。
「女性にとっての償いは、真実をおれたちに知らせることだったんじゃないですか」
「ずいぶんと都合のいい解釈だな」
「そうかもしれません。でも、おれはそう思いたいです」
「――はっ。勝手にしな」
凍月は、呆れたように鼻で笑った。だけれども、満更でもなさそうなのは、自分の気のせいだろうか。
「じゃあ、氷魚くんは、これからわたしたちは何をすべきだと思う?」
いさなが静かに問う。氷魚の答えはとっくに決まっていた。
「簪を、鎧武者に届けましょう」
鎧武者が姫の死を受け入れることができずにさまよっているのだとしたら、簪を届けることで何かが変わるかもしれない。残酷かもしれないが、きっと必要なことだ。
鎧武者にとっても、姫にとっても、――井戸の女性にとっても。
「そうだね」といさながうなずく。
眼下には砂利道が見える。鎧武者が命を絶ったあの場所に、もう一度向かう。




