橋の上に立つ姫君⑭
思考が止まる。怖くてどうにかなってしまうそうなので、あえて何も考えない。
ゆっくりと――
ゆっくりと、氷魚は振り返る。
見下ろす。
氷魚の足をつかむ白い手と、その隣に、手の主と思われる女性の白い顔があった。
「――っ!」
驚きはしたが、悲鳴は上げなかった。女性の顔があまりに悲しそうだったからだ。
「動くなよ、小僧」
凍月の動きは素早かった。
汚れるのも厭わずに氷魚の肩から降りた凍月は、白い手目がけて鋭い爪を一閃させた。
ひっという、かすれた悲鳴のような音と共に女性は氷魚の足から手を離す。
「怨霊だかなんだか知らねえが、不意打ちみてえな真似しやがって!」
凍月が、女性の頭を狙って前脚を振りかぶる。女性の顔が恐怖に歪む。
「凍月さん、待って!」
氷魚はとっさに凍月を抱きしめた。
「あ? なんだよ。邪魔すんじゃねえ」
「この方に、害意はないみたいです」
「はぁ?」
氷魚の腕の中で、抱っこを嫌がる猫みたいにじたばたともがいていた凍月が動きを止めた。
「ほら、見てください」
女性は、悲しそうな顔でこちらをただ見ているだけだ。恨みや害意は感じられない。凍月にもそれが伝わったようだ。
「マジか? ……マジだな」と凍月は爪を引っ込める。
「凍月さん、この方と話ってできませんか?」
女性は、氷魚たちに伝えたいことがあるのかもしれない。
「んー。無理じゃねえかな。気配が薄すぎる。今まで俺が気づかなかったくらいだからな」
凍月はそっけなく答える。
「――」
女性が無言で白い手を伸ばした。人差し指で氷魚のポケットを指さす。簪が入っている場所だ。
「簪? あなたの物なんですか?」
てっきり姫の簪だと思ったのだが、違うのだろうか。
女性は氷魚の問いには答えずに、かすかに震える声でこう言った。
――謝りたかった。
「え? それって……」
女性の姿が霞んで消えていく。止める暇もなかった。
「凍月さん、今のは?」
腕の中から抜け出し、肩に飛び乗った凍月に訊く。凍月は首を横に振った。
「さぁな。俺にもさっぱりだ」
一体、どういうことだろう。謝りたいって、誰に? 何を?
そもそも、女性は何者だったのか。
諸々の疑問を抱えたまま、氷魚は縄梯子に手を伸ばした。
「――遅かったね」
井戸から出ると、腕を組んだいさなが仁王立ちしていた。無表情だが、全身から隠しきれない怒りがにじみ出ているのがはっきりとわかる。
「いさなさん、すみませんでした」
開口一番そう言って、氷魚は頭を下げた。
「凍月さんに諭されて気づきました。おれ、いさなさんの気持ちも考えないで勝手に突っ走って、心配かけて……。申し訳ないです」
「え……凍月が?」
いさなは驚いたように氷魚の肩の凍月に視線を向ける。凍月は「さてな」と目を逸らした。
いさなは「――そう」と柔らかく微笑み、それから真剣な表情になる。
「わかってくれたならいいの。ただ、これだけは言わせて。氷魚くんが傷ついたら、悲しむ人がいっぱいいる。そして、その中にはわたしも含まれている。それを忘れないでほしい」
いさなの言葉が胸に染み入る。真実、本心からの言葉だと感じた。
「――はい」
「うん。じゃあ、井戸の底で何があったか教えて」
「未確認生物も霞むようなとびきりでかいミミズを見つけたぜ。土産に持ってくればよかったな」
凍月がからかうように言う。
「勘弁してくださいよ。――と、これを見つけました」
氷魚はポケットからハンカチでくるんだ簪を取り出した。
ハンカチをめくり、いさなに差し出す。受け取ったいさなは、簪を空にかざして眺めた。
「きれいな簪ね。九曜紋ってことは、鳴城氏の家紋か。姫様のかもね」
「おれもそう思ったんですが、気になることがありまして」
「気になること?」
「簪を見つけて井戸を出ようとしたところで、女性が出現したんです」
「残留思念みてえな存在だったよ。霊、ではなかったな。俺が気づかなかったくらいだし」と凍月が補足する。
「それで?」
「簪を指さして、『謝りたい』と」
「謝る? 簪の持ち主にかな?」
いさなの言葉で気づく。そう考えるのが自然かもしれない。
「言われてみれば、そうかもしれませんね」
「ということは――」
いさなと氷魚、そして凍月は揃って橋の方に目を向けた。




