橋の上に立つ姫君⑫
「うん? どうしたの?」
「なんか、橋の方にぼんやりと白い人影が見えた気がするんですが」
どうにかつっかえずに言えた。不自然ではなかったと思う。
「え? 姫様かな」
「かもしれません。おれたちにまだ何か伝えたいことがあるのかも」
「気になるね。先にちょっと橋を調べてみようか」
「はい」
踵を返すと、いさなは足早に橋の方に向かっていく。氷魚は動かない。いさなとの距離が十分離れたところで、氷魚は縄梯子に手をかけた。
大きく息を吸って、吐く。
ペンライトを取り出し、スイッチを入れて口にくわえる。
どうかしている。本当に自分がやる必要があるのか。いさなに任せておけばいいのではないか。
うるさい。昨日の夜から、やってやると決めていたのだ。
心の叫びを無視して、下を見ないように、氷魚は縄梯子を伝って井戸に入っていく。
ほどなくして、上から「氷魚くん!?」といういさなの焦り声が聞こえてきた。どうやら気づかれたらしい。
「何やってるの! 戻ってきなさい!」
いさなの怒ったような声が井戸の中に反響する。戻れるものなら戻りたい。
しかし当然戻るつもりはなく、氷魚は逆に下りる速度を速めた。縄梯子が揺れて井戸の壁にぶつかる。縄梯子を使うのは初めてだが、思ったよりも不安定ですんなりと下りていけない。テレビで見る分には簡単そうだったのに。
自分で自分がしていることが信じられなかった。
夜の城址で井戸に入る。底を目指して下りている。
悪夢のようだ。猿夢の方がまだマシかもしれないとすら思う。
「氷魚くん! 聞こえてる!?」
いさなの声が耳を素通りしていく。聞こえているけど返事をする余裕はないし、そもそもペンライトをくわえているので声が出せない。よだれでペンライトが滑りそうになる。ペンライトを落としたらどうしようと思う。そしたら真っ暗闇だ。最悪の想像が一層恐怖をあおりたてる。
鼻息が荒い。震えが止まらない。怖くてたまらない。
この井戸には底なんてなくて、永遠に下り続けなくてはいけないのではないかと思う。
しかし幸か不幸か、氷魚の精根が尽きる前に縄梯子が尽きた。
つま先でそろそろと下を探る。届かない。首を巡らせ、氷魚はおそるおそる下を覗き込んだ。ペンライトの細い光が黒い泥土を照らしている。予想していたが、すでに枯れた井戸のようで水は溜まってないようだ。ここ数日、雨が降っていなかったのも幸いだった。
自分の位置と井戸の底との距離はそれほど離れてなさそうだったので、氷魚は思い切って縄梯子から手を離した。
鈍い衝撃。ぐちゃりと、スニーカーが泥に埋まる感触があった。地下から水が染み出ているのか、足元はかなりぬかるんでいる。
自分は今井戸の底にいる、という事実はなるべく考えないようにする。
氷魚はペンライトを手に持ち、上を見上げた。
「うそをついてごめんなさい! いさなさん、無事に底に着きました!」
氷魚は声を張り上げる。
「バカ! きみが下りてどうするの!」
暗くて顔はよく見えないが、いさなの怒りが伝わってきた。
いさなが本気で怒るのを見るのは、これで2度目だ。1度目は猿夢で無茶をしたときで、よく考えなくてもたいして時間が経ってない。悪い後輩だと思う。
「大体、きみがどうやって調べるの?」
「調べるのは凍月さんですよね? いさなさんもそのつもりだったはずです」
「……それは」
「だったら、下りるのはおれでも構いませんよね」
氷魚もまるきりの考えなしで下りたわけではない。一応の算段はつけてあった。凍月の力で調べるのなら、一緒にいるのは自分でもいいはずだ。
「……でも、なにかあったら」
「大丈夫ですよ」
「何を根拠にそんな呑気な」
「鳴城の姫様が、おれたちを危険な目にあわせるとは思いませんでしたから」
姫の霊から感じたのは、何かを伝えたいという切実な思いだった。だから、幽霊でも怖いと思わなかった。
「――」
「だから、だいじょうぶです」
「は、なかなかぶっ飛んだ小僧だな」
いさなの肩の黒い塊が言う。よく見えないが、声からして凍月だろう。
「きみは、まったく……」
「凍月さんを、こっちに下ろしてくれませんか」
「わたしも下りる」
「だめです。この狭さですよ」
氷魚ひとりでもかなり窮屈だ。ふたりでは身動きできないだろう。大体、いさなと密着したら作業どころではない。
「――わかった。凍月を落とすから、受け止めてね」
「はい……って、落とす?」
「待て、いさな。せめてロープでくくるとか……って、おいぃぃ!?」
凍月のなにやら慌てたような声。黒い塊が降ってくる。氷魚はとっさにペンライトを口にくわえ、両手を空けた。お姫様抱っこの要領で、落ちてきた凍月を受け止める。小さな体躯だが、凍月にはそれなりの重さがあった。
「大丈夫ですか?」
腕の中の凍月はほのかに温かく、そしてもふもふだ。頬ずりしたいが、間違いなく怒られるのでやめておく。
「あいつ、なんてことしやがる」
泥土に下りるのは嫌だったのか、身をよじった凍月は氷魚の肩に飛び乗った。長い尻尾が鼻先をかすめる。
自分以外の温もりがこの場に存在することがたまらなく嬉しくて、安心する。




