橋の上に立つ姫君⑩
「どういう意味だったんでしょう」
「とにかく、調べてみましょうか」
いさなは躊躇なく草むらに分け入った。手と足を使って、腰まである草を倒していく。
「いさなさん、汚れますよ。おれが調べますから」
慌てて氷魚はいさなを追い越し、強引に周囲の草をかき分ける。
「汚れるくらい平気よ。――でも、ありがとう」
「こういうことでしか、お役に立てませんから」
「そんなことないよ。氷魚くんには、すごく助けられてる」
「そうですか?」
「そうだよ」
氷魚は自分がいさなの助けになっているとは思わない。助けられてばっかりだ。
「――めんどくせぇな。ここいら一体、焼き払ってやろうか」
ふたりがしばし無言で草をかき分けていると、いさなの肩の上で退屈そうにしていた凍月が物騒なことを言い出した。
「だめに決まってるでしょ。ここ、史跡なのよ」
「史跡ねえ。なんで人間は昔のものをありがたがるかね。俺にはわからん」
「それが人の営みだからよ。確かに生きたっていう証なの」
「ふぅん? そういうもんか?」
「そういうものよ。あやかしであるあなたには、人の生きた証に敬意を払え、なんて人間であるわたしの価値観を押し付けるようなことは言えない。でも、無碍にはしないでほしい」
「……ふん、考えておく」
「ん……?」
いさなと凍月のやり取りを聞きながら草むらをかき分けていた氷魚の足の先に、何かが当たった。
草をかき分け、懐中電灯で照らしてみる。
「いさなさん、これ」
近づいてきたいさなも懐中電灯で照らす。
「井戸ね」
古井戸だった。井桁もなく、むき出しだ。頑丈そうな蓋が乗っており、鎖でぐるぐる巻きにされている。鎖には大きな南京錠がかかっていた。蓋を開けたら中からなにか出てきそうだ。
よく見ると、井戸の近くに朽ちかけた看板が草に埋もれるように立っている。
看板には『危ないから近寄ってはいけません』という赤い注意書きが大きく書かれていて、ヘルメットをかぶった男性が両手を前に出したイラストが添えられていた。長い間風雨にさらされたせいか、男性の面相はホラー映画のクリーチャーみたいになっている。
「――ふむ」
「……っていさなさん! なんで刀を出してるんですか!」
「この鎖、斬ろうかなって思って」
「だ、だめですよ。ほらこれ、市が管理してるものですよ。勝手に鎖をぶった切ったら怒られますって!」
看板には、鳴城市役所の名前と電話番号も書かれていた。
「わかってる。冗談よ」
いさなは刀を引っ込めた。本当に冗談だったのだろうか。
「いや、目がマジだったな」
凍月がぽそりと言うが、いさなはこれをスルーした。
「となると、まず市の許可を取らないといけないか」
「……一応訊きますが、許可を取ってどうするんです?」
「井戸の中を調べる」
「ですよね!」
それ以外ありえない。わかりきった答えだった。
「だって、姫様が指さしたのは、十中八九この井戸でしょ。絶対なにかあるよ」
「そりゃそうでしょうけど、この中に入るんですか?」
どのくらいの深さがあるか知らないが、こんなところにある古井戸の中に入るなんて、想像しただけで怖気が走る。
「氷魚くんは心配しないで。わたしと凍月で入るから」
「いや、そういう問題じゃなくてですね。そもそも怖くないんですか? 井戸ですよ」
たとえ真昼間でも、井戸に入るなんて御免こうむりたい。
「井戸も怪異と縁が深いよね。古くは皿屋敷とか。氷魚くんはなにを連想する?」
「――そうですね。ビデオテープを媒介にして呪いが広がる小説、とか」
氷魚が生まれる前の小説だが、井戸が関わる怖い話というと真っ先に思い浮かぶ。映画にもなった作品で、氷魚は映画の方しか知らない。観たのはだいぶ昔だが、鮮烈な恐怖が今でも脳裏に焼き付いている。
氷魚は普段ホラー映画を観ないが、あの映画は例外だった。小さい頃に、ひとりで観るのを嫌がった姉が強制的に氷魚を道連れにしたのだ。怖いなら見なければいいのに、どうして人は怖いものを好むのだろう。
「氷魚くん、今時の若者なのに、よくビデオテープなんて知ってるね」
「いさなさんだって今時の若者でしょ……。うちは母が好きで集めてるんですよ。家にまだ現役のデッキがありますよ。VHSとベータの」
母はたまにそれでDVDになっていない古い映画を観ていたりする。
「素敵な趣味ね。わたしも観てみたいな」
「――って、話を逸らさないでください」
「まあまあ。今晩は装備もないし、ひとまず引き上げましょうか」
今日のところは諦めるみたいだが、いさなは間違いなく井戸に入る気だ。ならば――
気は進まないが、自分がやるべきこと――できることは1つしかない。
「――そうですね。今日は帰りましょう。でも、またここに来るときは、絶対におれに声をかけてください」
「う、うん。わかった」
氷魚の気迫に押されたように、いさなはこくりとうなずいた。