橋の上に立つ姫君⑨
いさなと氷魚、そして凍月は鳴高裏門前から城址に入る。雨が降っていない分、前の晩より視界がクリアだ。が、それでも暗いのには変わりない。氷魚は持参した懐中電灯のスイッチをつけた。
「凍月、どう?」
長い尻尾をなびかせて、いさなの肩に飛び乗った凍月は鼻をひくひくと動かした。
「あの鎧野郎の気配があるな。胸糞悪いまじないの効果はまだ残っているみてえだが、こっちから仕掛けない限り、大丈夫だろう」
「今回は凍月さんが直接調べてくれるんですね」
「ええ。魔力を飛ばすと鎧武者を刺激しちゃうからね。――さっきも言ったけど、燃費が悪いから、凍月の実体化はなるべく避けたいんだけど」
凍月が何か言いたそうにしていたが、いさなのひと睨みで黙り込んだ。妖怪すら黙らせる眼光だ。
少し歩くと、正面に高台に続く坂が見えた。左手は大淵神社に続く道で、右がこの前鎧武者に遭遇した道だ。右をずっと進めば大手門に通じている。
今晩向かうべきは正面だ。
いさなと凍月が先陣を切って坂を上り始めた。氷魚も後に続く。
お祭りのときなどに何度か上ったことがあるが、改めて意識するとかなりの傾斜だった。確かに、マラソン大会の最後にここを走るのはきつそうだ。
数分ほど上ったところでいさなが足を止めた。
「着いたね」
懐中電灯の光の先に、朱塗りの橋があった。
昼間見る分には立派な橋だなとしか思わないが、夜に見るとまるで別物だ。引き込まれるような、妖しい美しさがある。
「なんか、渡ったら別世界に行っちゃいそうですね」
冗談めかして氷魚が言うと、いさなは橋のたもとを照らした。
「橋は境界って言われてるからね。橋にまつわる怪異や伝承は多いのよ」
「そうなんですか?」
「ええ、橋姫なんかが特に有名。あと、安倍晴明が京都の一条戻橋の下に式神を置いていたっていう話も広く知られてるんじゃないかな」
「あ、安倍晴明のは聞いたことがあります。奥さんが式神を怖がったからですよね」
「っていう説もあるわね。顔が怖かったらしいよ」
氷魚はそこでなんとなく、いさなの肩に乗っている凍月に視線を向けた。視線を感じたのか、凍月はふくろうのようにぐるりと首を回す。
「小僧。なんで俺を見る」
「深い意味はないです」
少なくとも、現在の凍月の顔は怖くない。狛犬と虎のあいの子みたいな顔だ。凍月が聞いたら怒るだろうが、どことなく愛嬌がある。しかも尻尾がもふもふで、触り心地がよさそうだ。
「凍月。反応はどう?」
いさなが訊くと、凍月は鼻をひくひくと動かした。
「あまり強い気配じゃねえが、橋の中央辺りにいるな。鎧武者とは別のやつだ」
「姫の幽霊ですか?」とこれは氷魚が訊く。
「さぁな。気配が弱くてよくわからん。いさな、ここからどうすんだ。俺がこれ以上やったら鎧武者まで反応しちまうぞ」
「ふふ。こんなこともあろうかと、とっておきの品を用意したの」
いさなは嬉しそうに言うと、ポケットを探りレトロな巾着袋を取り出した。更に、巾着袋から小箱を取り出す。小箱の材質は鉛だろうか。記号か、文様みたいなものが刻まれている。
「ああ、そいつを持ってきたのか」
凍月は察したようだが、氷魚にはさっぱりだ。小物入れか何かだろうか。
「なんです、それ」
「特殊な粉が入ってるの。魔導具――不思議な力を持った道具の一種で、この粉を使うと不可視のものが見えるようになるのよ。霊視能力がないと視認できない霊とかね」
「使う? お札を巻いて鼻から吸引するとかですか?」
バイオレンスな映画でよく見る、ドラッグの吸引方法だ。
いさなが持つ魔導具とやらはまさかドラッグではないだろうが、トリップ効果で見てはいけないものが見えるのかもしれない。
「そうそう。依存性があるから使い過ぎには注意……って違う! かけるの!」
「砂かけ婆みてえにな」と凍月が茶化すように言う。
「あんなに景気よく使うものじゃないから! お相撲さんか! ……って、ふたりしてわたしをからかってるでしょ……」
「すみません、つい。――とにかく、便利なものなんですね」
氷魚が言うと、いさなは気を取り直すように前髪を撫でつけた。
「ええ、そうね。材料を集めるのが大変だし、作成も手間だから、ここぞという時の切り札だけどね。気軽に使えないのが欠点よ」
「いさなさんが作ったんですか?」
お菓子のCMみたいに、謎の液体が煮えたぎる大釜をぐるぐるとかき回す魔女姿のいさなを想像してしまう。
「あいにく、わたしに魔導具作成の技術はない。作ったのは兄さんで、これは売ってもらったの。身内割引でも結構な金額だったよ。今回は報酬も出ないし、完全な赤字ね」
世知辛い話だった。
「――そうだ、氷魚くん。昼間ちらっと言ってたけど、もしかして姫の霊を見たの?」
「……ええ、多分。初めて城址を調べた夜です。道隆さんの車に乗ってるとき、気配を感じて後ろを見たら、公園に新緑色の着物を着た女性が立ってました」
「なるほど……」
「言うのが遅れてすみません」
「いえ、いいわ。危険は感じなかったんでしょ」
「ですね。こちらに悪意を持っている様子ではなかったです」
「今はなにも感じない?」
「特には」
「いさな。ひょっとして、小僧が霊視できたら粉が節約できるとか、考えてないよな」
「考えてない」
考えてそうだった。
「お役に立てず申し訳ないです」
氷魚には霊感なんてない。あれは自分が『視た』というより、姫が出てきてくれたというのが正解だと思う。凍月の魔力に反応したのだろう。
「氷魚くんはなにも悪くないよ。――さて」
いさなは橋に歩み寄り、懐中電灯を脇に挟むと小箱の中身を掌に開けた。唇を近づけて、ふっと橋の中央に向かって吹きかける。白い粉が闇に舞った。
粉は橋の中央に吸い寄せられるように集まっていく。やがて、白い輪郭がぼんやりと浮かび上がった。
そうして現れたのは、新緑色の着物を着た女性だった。
いや、女性というより少女だ。あの晩は距離があったのでよくわからなかったが、近くで見ると自分とそう年が変わらないように見える。年下かもしれない。
粉が喉に入ったのか、少女は口元を押さえて咳き込むような仕草を見せた。超常の存在とはいえ、ちょっとかわいいと思う。
「可視化のために強引な手段を取ってしまい、申し訳ありません」
少女に向かって、いさなは頭を下げた。着物の少女は構わないというふうに、首を横に振った。意思疎通はできるようだ。
「あなたは、鳴城の姫君で間違いありませんか」
いさなが尋ねると、着物の少女はこくりとうなずいた。やはり姫だったようだ。わかった途端、少女が高貴な雰囲気を漂わせているように見えてくる。
姫は儚げだが、芯の強そうな顔立ちをしている。悲恋を苦に世を捨てるようには、氷魚には見えなかった。本当に橋から身を投げたのだろうか。
もっとも、人の内面なんて傍から見ただけではわからないものだが。
「お聞きしたいことがあるのですが、言葉は話せますか」
姫の霊は喉を押さえると、悲しそうに首を振った。
「では――そうですね。この城址に現れる、鎧武者の亡霊はご存知ですか」
姫はゆっくりとうなずいた。
「彼が現世に留まっているのは、あなたを探しているからですか」
姫は少し考えるようにうつむいた後、頭を上げていさなの後方をすっと指さした。
いさなと氷魚は揃って振り向く。
姫が指さした方向は平地になっていて、手入れのされていない草むらが広がっている。
「あちらに何が……」
橋に視線を戻す。
姫の姿は、もうなかった。




