橋の上に立つ姫君⑧
夜半、鳴城高校裏門前。閉ざされた校門の前に、いさなと氷魚はいた。学校に忍び込もうというのではない。再度、城址を調査するために待ち合わせたのだ。今夜の調査対象は鎧武者ではなく、『橋の上に立つ姫君』だ。鎧武者の謎を解くきっかけになるかもしれない。
「また鎧武者が出てきたらどうします」
「交戦は避けたい。なるべくなら、出会わないのがベストね」
大手門前ではなく、もう一つの出入り口である鳴高裏門前を待ち合わせ場所に指定したのはそのためかと思う。高台に行くなら、こちらからの方が近い。
「調査方法は以前と同じですか?」
「橋だから、鎧武者の出現地点と距離は離れてるけど、念のため違う方法を使うわ。――凍月、お願い」
いさなが呼びかけると、足元の影がぐにゃりと歪んだ。一部分、腕の辺りが分離し、立体的に盛り上がっていく。人の影がこういう名状しがたい形に変化するのは、何度見ても慣れない。
ほどなくして、影から分離した部分は黒い4足獣の形に実体化した。黒い獣は犬科のようにも猫科のようにも見える。大きさは小型犬ほどだ。
「――もしかして、凍月、さん?」
氷魚は恐る恐る口を開いた。
4足獣はぎょろりと、黒い身体の中で唯一青い瞳で氷魚をにらみつける。
「あぁ? 小僧が気安く俺の名を呼ぶんじゃねえよ」
ドスの効いた渋い声だった。身体は小さくても大妖怪の威厳がある。
「す、すいません」
「凍月。仲良く」
いさながたしなめるように言う。
「ふざけんな。俺がこいつと仲良くしなきゃいけない理由はねえだろ」
もっともな凍月の言葉だが、ここで引き下がるわけにはいかない。なにせ凍月はいさなに宿っているのだ。つまり、いさなと一緒にいるということは、凍月と一緒にいるということにもなる。
相手は大がつくほどの妖怪で、自分がこんなことを言うのは不遜かもしれない。けれども、勇気を出そうと決めた。
「――あの、おれはできれば凍月さんとも仲良くしたいです」
堂々と告げるつもりだったが、実際は消え入りそうな声になった。覚悟を決めたくせにこれだ。恥ずかしかった。
凍月は青い目を何度か瞬かせる。
「おい、いさな」
「なに?」
「この小僧は阿呆なのか。それとも馬鹿か」
たぶん両方だと氷魚は思う。
「どっちでもない。あなたも見てたでしょ。あと小僧って言わない。氷魚くんよ」
いさなの言葉で、氷魚は大事なことを忘れていたことに気づく。挨拶だ。凍月が気を悪くするのも無理はない。
「挨拶が遅れました。橘氷魚です。よろしくお願いします」
氷魚は凍月に向かって頭を下げた。
「おい、いさな」
「なに?」
「わかったぞ。こいつは正気じゃねえ」
ひどい言い草だったが、事実の一面を含んでいるかもしれないと氷魚は思う。
ここ最近氷魚が遭遇した出来事は、どれも精神が素面のままでは到底受け入れられないものばかりで、適応するためには今まで自分が信じていた現実を書き換える必要があった。その過程において、精神が変容するのは致し方のないことかもしれない。
それが、正気の一部が狂気に取って代わることを意味するのだとしても。
「凍月」といさなは嘆息する。
「だってよ。おかしいだろ? なんで平然としてるんだよ。以前、こいつは俺の影を見てるんだぞ。散々ビビり散らかしてただろうが」
凍月は昔の妖怪とのことだが、言葉遣いがところどころ現代的だ。適応したのだろうか。
「でも、逃げなかった。なかなか胆力があるって、後であなた褒めてたでしょ」
「……いや褒めてねぇし」
「うそ。わたしちゃんと聞いたよ」
「聞き違いだろ。――って小僧、何にやついてんだ。見世物じゃねぇぞ」
「絡まないの」
褒められてたなんて、知らなかった。ちょっと嬉しい。
「大体、今のあなたの姿、威厳が足りないからね。せいぜい豆柴サイズよ」
あの夜見た『影』ほどではないが、今の凍月も十分妖気を漂わせている。それでも以前ほど怖いと思わないのは、形と大きさのおかげだろうか。それとも、自分が『慣れた』のか。
「む、確かにこりゃちっこいな。いさな、もう少し魔力を回せ」
「嫌よ。あなた燃費が悪いんだもの。後でご飯をドカ食いする身にもなってよ」
「え、いさなさんが食欲旺盛なのって、そういう……?」
「……やっぱり、大食いって思われてた?」
いさなは恥ずかしそうに目を伏せる。もしかして、気にしていたのだろうか。今日の昼も氷魚の母が作った料理を気持ちのいい食べっぷりで胃に収めていたが。
「凍月を宿していると、お腹が減りやすいのよ。力を借りたりすると、特に」
「そうだったんですね」
「小僧、真に受けるなよ。確かに俺はいさなの魔力を喰らうが、元々こいつの胃袋は底なし……」「凍月」
ひんやりとした、刃のような声が凍月を遮った。
「お、おう……。すまん」
「――というわけで、氷魚くん。そろそろ行こうか」
「は、はい」
氷魚はこくこくとうなずく。凍月より、今のいさなの方が怖かった。




