橋の上に立つ姫君⑥
日曜日は、あっという間にやってきた。梅雨の晴れ間で、久しぶりの晴天だ。
氷魚が家の前で所在無げにたたずんでいると、自転車に乗ったいさなが見えた。今日はちょっとよそ行きチックな服装をしている。いさなは何を着ても似合うと思う。
「あれ、氷魚くん。家の前で待っててくれたの?」
自転車を止めて、いさなは氷魚に笑いかけた。
「たまたまです。郵便物が来たのかなって思って」
もちろん嘘だった。
自室では落ち着かず、かといってリビングだと姉と母のにやにや笑いが目に入る。身の置き所がなく、30分前から外にいたのだ。
「そう? あ、これ、よかったらご家族みんなで食べて」
いさなが紙袋を差し出す。『花楓屋』の菓子折りだった。花楓屋は東北でも有名な老舗の菓子店で、特に饅頭が絶品だ。
「ありがとうございます。ここのお菓子、みんな好きなんですよ。――と、自転車はそこに止めて大丈夫です」
自転車置き場に自転車を置いたいさなを伴い、氷魚は玄関のドアを開けた。
「うわっ」と氷魚はのけぞる。
満面の笑みを浮かべた姉と母が待ち構えていた。
いさなを見て、「あらあらまあまあ」と母は片手を頬に当てた。『息子が家に女の子を連れてきたときの母親の模範的な反応』そのもので、教科書に載せてもいいくらいだった。一方姉は目を丸くした。
それから母と姉は親子ならではのタイミングで顔を見合わせ、にこりと笑った。目がらんらんと輝いている。ごちそうを前にした腹ペコの猛獣みたいだった。
「はじめまして。郷土部――の遠見塚いさなです。氷魚くんにはお世話になっています」
好奇心がむき出し過ぎて、威圧感すらにじませる姉と母にも一切ひるまず、いさなは微笑んで挨拶する。部活名は事前に打ち合わせ済みだ。
「氷魚の姉の水鳥です」
「母です」
コントを始める前の芸人の自己紹介かよと思う。
「さ、どうぞ。上がって」
「お邪魔します」
水鳥に促され、いさなは橘家の敷居をまたいだ。
水鳥と母が揃って氷魚にだけ見えるように親指を立てる。何のつもりか知らないが、恥ずかしいのでやめてほしいと思う。
「よかったら、どうぞ」
いさながリビングのソファに腰かけたのを見計らって、母がクッキーと紅茶をテーブルに置いた。氷魚はいさなの向かいに座る。
「おいしそうですね。手作りですか?」
「お父さんのね」
いさなの問いに、母が嬉しそうに答えた。
お菓子作りが趣味の父は、いさなが来ることを知って朝一番でクッキーを焼き上げたのだ。そんな父はいさなの顔を一目だけ見て、自室に引っ込んでしまった。去り際、やはり父は親指を立てていった。似た者家族だ。
「お父さんが? すごいですね」
「お店のものにはかなわないけど、味は悪くないと思うわ」
「じゃあ、さっそくいただきます。――ん、おいしい」
「よかった。たくさん食べてね」
いさなは一口かじったクッキーをしげしげと眺めて呟く。
「はじめて食べました」
もちろん、クッキーそのものを、ではあるまい。いさなは続けて言う。
「お店のじゃない、手作りクッキー」
思わず言葉が零れた、といった感じだった。
よその家のことをたくさん知っているわけではないが、お菓子を手作りしない家はそんなに珍しくないと思う。買って済ませる家が多いのではないか。屋名池も橘家のクッキーを食べた時、いさなと同じようなことを言っていた。
しかし、いさなの言葉は、淡々としてはいたが、何かしら切実な響きを伴っていた。
それまでにこにこと笑っていた母が真顔になり、
「いさなちゃん」と声をかけた。いきなり名前呼びでしかもちゃん付けかよと氷魚は慄いた。距離の詰め方が極端だ。
「はい」
しかしいさなは気を悪くした様子はない。
「なにか嫌いな食べ物はある?」
「ありません。なんでも食べます」
母は再び笑顔になる。
「よかった。だったら、お昼も食べていって」
「え……でも、ご迷惑なのでは」
「ぜんぜん。賑やかな方がいいもの。待ってて。今から買い物に行ってくるから」
言うなり、母は部屋を出て行った。いさなの言葉が母の何かに触れたのかもしれない。
「氷魚くんのお母さん、急にどうしたのかな」
「母は、お客さんに料理を振る舞うのが好きなんですよ」
それは理由のすべてではないだろうが、事実ではある。父や姉の友人が来たときなど、母はテーブルいっぱいの料理でもてなすのだ。
「そうなんだ。いいお母さんだね」
「お待たせ。準備できたよ」と、水鳥がファイルを持ってリビングにやって来た。
「あれ? 母さんは?」
「買い物に行った。先輩にお昼ご飯をごちそうするってさ」
「ああ、了解。じゃあ、それまでに済ませちゃおうか」
詳細は聞かず、水鳥はテーブルにファイルを置いた。
「よろしくお願いします」
いさなが頭を下げ、氷魚もなんとなくそれに倣う。
「こちらこそ、よろしく。で、最初に結論から言っちゃうと、残念ながら城址に出る鎧武者が何者なのか、文献からはわからなかったわ。けど」
水鳥がファイルを開く。氷魚といさなは左右から覗き込んだ。ファイルには何枚かコピー用紙が綴じられている。
「『鳴城探訪』っていう鳴城の昔話や怪談、伝承を集めた古い本に、こんなことが書いてあったの」




