橋の上に立つ姫君④
夕食後、片付け当番だった氷魚が洗い物を済ませてリビングに行くと、母と姉がDVDを観ていた。巨大化したカニが人を襲う映画だ。
氷魚も一緒に観ないかと誘われていたが、地雷臭がしたので事前に断っていた。父の姿はない。父はB級映画が苦手なので、早々に自室に引っ込んだのだろう。
テレビの画面の中では、なにかの足跡を前にした男女が言い争いをしている。
これはカニの足跡よ、あたし実物を見たんだから。まさか、こんなに大きなカニがいるはずはないよ。どうして信じてくれないの。モンゴリアンデスワームが実在してるって方がまだ信じられるぜ。茶化さないで! 云々。
心底どうでもよかった。夜中の通販番組の方がまだ気の利いた会話をしていると思う。
誰だってそうだろうが、姉と母は映画鑑賞を邪魔されると怒る。もっとも、つまらない映画ならその限りではない。いま現在彼女たちが観ている映画は、どちらかと言えばつまらない方だと氷魚は判断した。
「姉さん、今朝の話なんだけど」
タイミングを見計らって、氷魚はソファに寝転んでいる水鳥に話しかけた。
「ああ、調べておいたわよ。必要だと思われる部分はコピー取ってきたから」
退屈そうに画面を眺めていた水鳥は、案の定怒らなかった。
「さすが、仕事が早い」
「もっと褒めてくれてもいいのよ」
寝転がったまま、水鳥は腰に手を当ててふんぞり返る。
「美人、才女、将来のベストスズキスト間違いなし」
「……最後のは微妙ね」
「で、姉さん。今度の日曜って、暇?」
「午前中は空いてる」
即座に答えるあたり、スケジュールの把握がしっかりしてるなと思う。
「部活の先輩が、おれと一緒に姉さんの話を聞きたいって言ってるんだけど、いいかな」
「郷土部の先輩ね。もちろん、いいわよ」
ひとまずは第一関門突破だ。
「ところで――」
水鳥はうつぶせになり、探るように氷魚の顔を下から見つめる。
「先輩って、男の子? それとも女の子?」
昼間感じた嫌な予感が、再び鎌首をもたげた気がした。
「……女の子」
ごまかしは無意味だ。正直に答えるしか術はなかった。
水鳥はにたりと、悪代官みたいな笑みを浮かべる。
「だったら、話をするのに条件があるわ」
「なに?」
嫌な予感は今やピークに達した。
「その子を家に呼びなさい」
予感は的中した。えげつない条件だった。
「なんでだよ。外でいいじゃん。アンジェリカとかさ」
姉は決して妥協しない。わかってはいるが、氷魚は精一杯の抵抗を試みた。
下心なんて微塵もないが、女の子を家に呼ぶなどハードルが高すぎる。今まで氷魚が家に呼んだことがあるのは屋名池だけだ。
「それじゃつまんないでしょ。ねえ母さん。母さんも氷魚の先輩に挨拶したいよね」
姉は、あろうことか母に援護射撃を求めた。氷魚は心の中で悲鳴を上げる。
待て、それは条約違反だ姉さん。
やはり退屈そうに画面を見ていた母は、
「そうね、氷魚がお世話になっているでしょうし、家に来てもらったら?」と大勢を決する一言を言い放った。
「ほら。母さんもこう言ってるし」
水鳥が勝者の余裕をにじませて言う。
姉と母が連合を組んだら、氷魚がどう頑張っても勝ち目はない。
「ずるいぞ。反則だ」
敗者の、せめてもの負け惜しみだった。
「ずるくなんてないでーす。まあ無理に呼ばなくてもいいけど、そしたら先輩は話を聞けないね。悲しむんじゃないかな。氷魚がヘタレなせいで」
大人げないが、これが姉という生き物なのだ。弟は逆らえない。
「――わかった。誘ってみる。でも、断られたら、せめておれには話してよ」
「いいわよ。その時は、かわいそうな弟ねと慰めてあげるから」
「それはいらない!」
圧倒的な敗北感を胸に抱えて、氷魚は自室に逃げ込むしかなかった。




