橋の上に立つ姫君①
「氷魚、あんた昨日の夜どっか行ってたでしょ」
翌朝の朝食前、席に着いた氷魚に水鳥が切り込んできた。朝食を作っている母には聞こえないように配慮しているのか、小声だった。
「――行ってないよ」
不自然にならない程度の間をあけて、氷魚は言った。なんでわかったんだと内心冷や汗だ。
「そう? あんたのスニーカーに泥がついてたんだけど。昨日、学校から帰ってきたときには汚れてなかったよね」
探偵かよと思う。ワトスンくんの気持ちがちょっぴりわかった気がする。
新聞を取りに行ったときに気づいたのだろう。物音を立てないように注意はしていたが、靴の泥にまでは気が回らなかった。
「あー、うん、ゴーソン。夜中に急にお腹が減って、からあげさんが食べたくなったんだよ。途中で大きな水たまりがあって、そこにはまった。恥ずかしいから黙ってたんだ」
苦しい言い訳だとは思うが、一応の筋は通っている。水鳥は疑うような目つきで氷魚を見ていたが、やがて細い息を吐き出した。
「わかった。そういうことにしておく。靴は拭いておいたから、父さん母さんは気づいてないと思う」
「ありがとう」
「いいよ。あんたももう高校生だし。ただ、危ないことだけはしないでね」
「うん、できるだけね」
確約はできない。キョーカイ部の活動を続ける以上、昨夜のような出来事が起きる可能性は常につきまとう。
水鳥は軽く眉を上げただけで、なにも言わなかった。それからテーブルの上に広げていた新聞に目を向ける。
新聞――。ふと思いつく。自分にも、いさなの手伝いができるかもしれない。
「姉さん、訊きたいことがあるんだけど」
「んー?」
風刺になっているようでなっていない4コマを目で追いながら、水鳥は気の抜けた返事をする。
「姉さんは、文学部で民俗学や歴史を勉強してるよね。鳴城については詳しい?」
自分には史料を探したり読み解く技術はない。だが、水鳥は違う。
「そこそこかな。急にどうしたの」と水鳥は顔を上げた。
「おれ、郷土部――に入ったから」
さすがに郷土部兼怪異探求部とは言えない。追及されたら日が暮れる。
「郷土部か。いいじゃない。あたし、放送局とどっち入るか迷ったのよね」
鳴高の放送局は名門だ。代々、制作した作品でいくつも賞を取っている。
任侠映画に出ていてもまったく違和感がない強面の体育教師にインタビューを敢行したことで話題になった、『高校生がピアスの穴をあけるのはなぜだめか』というような真面目な作品が多いが、中には『鳴城で発見! ベストスズキストを追え!』みたいに悪ふざけ全開な作品もあったりする。
スズキストとは鳴城の畑山商店街にある『ブティックスズキ』の服を着ている者の総称だ。安くて品質も悪くないので鳴城マダムに大人気のお店だが、保守的なデザインゆえヤングには避けられている。
ちなみに『鳴城で発見! ベストスズキストを追え!』は姉が関わった作品で、賞こそ取れなかったものの、そこそこ評判が良かったらしい。文化祭で上映して話題になったのだ。
作品の中でベストスズキストに選ばれた西上さん(32歳主婦)は一躍時の人になり、畑山商店街で人気絶頂の女優みたいに声をかけられまくったとのことだ。
橘家では家族そろって鑑賞したが、特に母にウケていた。あなたも昔はスズキストだったのにねと姉に絡み、嫌がられていたのを覚えている。ファッションの自由がない幼い頃にブティックスズキの服をあてがわれるのは、鳴城の女の子なら皆通る道だ。
「で、鳴城のなにを知りたいの?」
「昔、姉さんが話してくれた、鳴城城址の鎧武者についてなんだけど」
靴の泥を指摘されたばかりで城址の話を持ち出すのはよくないかなとは思うが、下手にはぐらかすよりはいい。氷魚が夜中の城址に行ったとは、水鳥は考えないだろう。
「まさかとは思うけど、昨日の夜、城址に肝試しに行ったんじゃないでしょうね」
ばっちり考えていた。姉の勘が鋭いのか、自分がうかつだったのか。両方かもしれない。
「――行くわけないじゃん。おれが肝試しをする理由も意味もないでしょ」
自然に言えた。動揺は、顔には出ていないと思う。氷魚はだめ押しとばかりに、
「一緒に行くような仲間もいないしね」と付け加える。
「まあ、そうね」
あっさり納得されたが、それはそれで哀しく思う。姉さん、ぼくは友達が少ないですか。
少ないのは事実なのでちょっとだけへこむ。
氷魚はすぐさま気を取り直し、
「学校で話題になったんだよ。それで思い出したんだ。ほら、姉さんあの話うまかったし。おれ、しばらく部屋の電気消せなくなっちゃってさ」と説明する。
「あぁ、あったね、そんなこと」
水鳥は懐かしそうに笑う。
「思い出した。あんた1人でお風呂にも入れなくなって、『おねえちゃん、一緒に入って』って泣きそうな顔で」「で、小さいころはスルーしていたことが気になったんだ」
氷魚は強引に水鳥の話を遮った。家族はこれだから油断ならない。
「スルーしてたこと?」
ここぞとばかりに弟の恥ずかしい過去をほじくり返してやるという顔をしていた水鳥だったが、内容が気になったのか軌道修正についてきてくれた。
「あの亡霊は一体誰で、どうして城址に出るのかってこと。怪談の元になった背景が知りたいんだ。学校新聞のネタになるかと思ってさ」
「なるほど。郷土部の新聞、まだ続いてるんだ。――そうね。いくつか説はあるけど、新聞に使うなら大学の図書館できちんと調べてあげる。閉架書庫に鳴城の伝承をまとめた本があったはずだから」
泉間大の図書館は、専門的な蔵書が多いと聞いている。鳴城市の図書館には置いてないような史料があってもおかしくない。
「お願いしてもいいかな」
「いいよ。調べとく」
情報を得るための口実に使ってしまったが、新聞に載せる予定は今のところない。水鳥をだましているみたいで心苦しい。せめてもの罪滅ぼしに、今回の事件が解決したら、新聞の記事に使えないか星山に相談してみようと思う。