素晴らしきかな、文化祭㉜
氷魚が目を開けると、見慣れた光景が飛び込んできた。鳴高の、屋上へと続く階段の踊り場だ。いさなと凍月、槐もいる。
腕の中に暖かな感触があり、視線を落とす。猫に戻ったミオが、そこにはいた。異界学校に行く前と同じように。
ミオは気絶しているのではなく、どうやら寝ているようだ。
「――?」
ふと違和感を覚え、氷魚はミオを片手で支えながら携帯端末を取り出す。時刻を確認すると、まだ午後4時にもなっていなかった。異界学校で数時間は過ごしたはずだが。
「時間も歪めていたってこと?」
氷魚と同様に、時間の違和感に気づいたらしいいさなが言う。
槐はにやりと笑ってうなずいた。
「その通り」
「あれだけの空間を構築しただけじゃなく、そんなことまで……」
「空間に関しては、ここに来た人々の力も借りたよ。ほら、今日は文化祭というお祭りだろう? 大勢の人たちが、この学校という場所を認識している。あとはそれを投影するだけだ」
「だけって、並の魔術師にできることじゃねえだろう」と凍月が言う。
「手伝ってくれた魔術師が優秀でね。きみたちのよく知る人物だよ。そろそろ出てきたらどうかな」
槐が、階下に向かって呼びかけた。
いさなの肩がわずかに震える。氷魚の脳裏に浮かんだのは、鳴城城址で出会った青年の顔だった。
影無の、そしてひとの道から外れた、いさなのいとこ――。
まさか。いや、でも。
「無事に突破できたみたいだね。よかった」
聞き覚えのある声だった。しかしそれは春夜のものではない。
氷魚といさなはほぼ同時に振り向く。
穏やかな笑みを浮かべた道隆が、階段を上ってくる。
安堵と不安がごちゃ混ぜになった感情がわき上がってきた。
「……どうして?」
いさなが、氷魚が抱いた疑問と全く同じ言葉を口にした。その声には、かすかに怒気が含まれていた。
「槐さんに頼まれたからね」
「頼まれたって……。それで氷魚くんやミオを巻き込んだの?」
ちらと氷魚を一瞥して、道隆は言った。
「巻き込むもなにも、氷魚くんと猫の女神さまを試すのが目的だよ。槐さんが言ったはずだ。試練だって」
「っ! なんの権利があってそんな」
「いさな、きみが言うかい? 協力者だって、氷魚くんを連れ回しているじゃないか。彼をこれまで危険な目にあわせたことがないと?」
冷静に返され、いさなはぐっと言葉に詰まった。
「……それは」
「いさなさん」
氷魚は割り込むようにして言った。
「おれは大丈夫です。ミオは怒るかもしれないけど」
氷魚の腕の中、ミオはまだ眠っている。
「大丈夫って、あんな目にあったのに? ……わたしが言えたことじゃないけど」
「おれは、おれの意志でいさなさんと一緒にいるんです。危険なことや怖いことは確かにある。でも、大丈夫です」
「……どうして?」
「いつも、最後には楽しかったって思えるから」
それだけは間違いがない。氷魚の本心だ。
「氷魚くん……」
「だったら、今回も問題はなかったかな」
軽い調子で道隆は言った。出会ったときから、彼はいつも飄々としている。けど、心の内はわからない。
「兄さんは……!」
いさなの怒気を受けて、道隆は肩をすくめた。
「妹にこれ以上怒られないうちに、僕は退散しようかな。それじゃあ氷魚くん、また。猫の女神さまにもよろしく言っておいてくれ」
「兄さん、わたしの話はまだ終わってない」
いさなが言うと、去りかけた道隆は顔だけをこちらに向けた。
「だったら、家に帰ってきたときにでも聞くよ。とはいえ、きみだってわかってると思うけどね」
「わかってるって……?」
道隆はそれには応えずに、そのまま階段を下りていった。
氷魚にはどうしても気になっていることがある。道隆と話すタイミングはいましかないと思う。
「――いさなさん。おれ、道隆さんと話してきます。ちょっと待っていてもらえますか」
「え?」
言うなり、氷魚は道隆の後を追って足早に階段を下りた。




