素晴らしきかな、文化祭④
屋上へと続く階段の踊り場は、文化祭の最中でもいつも通りだった。
賑やかな声は聞こえてくるものの、誰もいない。
氷魚たちは乗り越えたが、ここへと続く道はコーンで封鎖されているので、誰かが来る心配もないだろう。
氷魚にしてみれば非日常の入り口になった場所だが、いまは逆に、文化祭という非日常の中の日常という感じがする。
「で、ジジイ。今更どういう風の吹き回しだ」
真っ先に口を開いたのは、姿を現していさなの肩に乗った凍月だった。
「おお、凍月か。久しぶりだね。元気そうで何よりだ」
「凍月、知り合いなの?」
「ああ、こいつは槐泡影。ぬらりひょんさ」
「ぬらりひょんって、誰にも気づかれずに家に入って勝手にお茶を飲んでいるっていう?」
反射的に言ってしまってから、氷魚は慌てて口を押さえた。本人の前で失礼だったと思う。
「ああ、そのぬらりひょんだよ。若い人でも知ってるんだね」
ぬらりひょん――槐は気を悪くした風もなく笑う。
「……その、有名ですから。ぬうりひょんと呼ばれてもいて、妖怪たちの総大将っていう説もあるんですよね」
総大将であることに根拠はないらしいが、氷魚が読んだ図鑑にはそう書いてあった。
氷魚が見たイラストでは紋付き袴に金槌みたいな頭部で描かれていたが、目の前の槐はどこかの企業のCEOでも通用しそうな、スタイリッシュな佇まいだった。
それはそれとして、気づかれないのが得意なら、ここまで凍月やいさなが気づかなかったのも納得だ。
「重鎮なのは確かだな」と凍月が言った。
「いまじゃ隠居の身だがね」と槐が続く。
「一線を退いたくせに、首を突っ込んでくるのか? あの猫の神さんのことは、俺たちの領分だぜ」と、凍月が本題に切り込んだ。
「年寄りの冷や水なのは承知だが、異国の神格が民間人の家で暮らすとなれば、さすがに看過できんよ。いくら分霊でもな」
「だから、見極めようと?」
「そうだ」
「女狐の指示か?」
女狐とは誰のことだろうか。その言葉を聞いた槐は一瞬だけ嫌そうな顔をする。
「あやつは関係ない。あくまで私自身の意志だ」
槐の言葉に、凍月は鼻を鳴らした。
「そうかよ。で、どうやって見極めるんだ。試練でも与えようってか?」
「察しがいいな」
槐は懐を探る。
そして、いかなる魔術か、槐は懐から子猫を取り出した。
ミオだった。
アメリカンショートヘアーの子猫で、見間違えるはずもない。
首根っこを捕まれたミオは、目を閉じてぐったりとしている。気絶しているのかもしれない。
その姿を認識した瞬間、頭の芯が燃えるように熱くなった。
家にいたのに、さらわれたのか。
あの雑な持ち方はなんだ。
――ふざけるな。
「ミオ!」
思わず駆け寄ろうとした氷魚を、いさなが手で制した。
「いさなさん!」
止めないでくださいと続けようとした氷魚は息を呑んだ。いさなのもう片方の手には、いつの間にか刀が握られていた。
抜き身ではないが、いさなはその気になれば神速で抜刀できる。
「槐さんとおっしゃいましたね。どういうおつもりですか」
背筋がぞっとするようないさなの声だった。熱くなっていた頭が一瞬で冷えた。
「試練だと言ったはず――」「そうではありません。試練だかなんだか知りませんが、あなたには、そんな風にミオを扱う権利はないはずです」
「――ふむ。外見に反して、なかなかの激情家のようだね」
あえてなのだろう。挑発するように槐は言った。
「いますぐミオを氷魚くんに返してください。さもないと――」
いさなは刀の柄に手をかける。
「私を斬るか? さすがにその刀でばっさりやられたら、私でもひとたまりもないな」
槐は肩をすくめ、氷魚に向けてミオを掲げてみせた。
「元々返すつもりだったよ。きみたちと一緒に試練を受けてもらうのだからね」
「え……?」
「受け取りたまえ」
槐がミオを放った。氷魚は慌ててキャッチする。暖かな手触り、ミオはこんなにも軽いのかと改めて思う。
「ミオ! ミオ!」
氷魚が呼びかけても、ミオは反応しなかった。
「眠っているだけだから、安心しなさい」
安心などできるわけがない。
試練なんて知ったことではなかった。ただミオさえ無事なら、それでいい。
「橘氷魚くん。きみは、ただの民間人ではないのだろう? だったら、今回もきっとだいじょうぶなはずだよ」
「なにを……」
言い返す暇もなく、槐が指を鳴らした。
途端、氷魚の視界が歪んだ。




