いさなのお誘い
「氷魚くん」
廊下に出るなり、涼やかな声に呼び止められた。
いさなだった。
隣のクラスとこちらのクラスの目に見えない境界線上のようなところに立っている。隣のクラスは異国の領土みたいな感じがして、それが上級生のクラスともなるとなおさらだ。今更だが、どうして特進科は1年と2年のクラスが隣り合っているのだろう。
「いさなさん、何か事件でも起きたんですか? 今日は部活ないですよね」
氷魚は声を潜めた。2人の間で事件といったら怪異のことに決まっていた。
「いまのところ、鳴城は平和だよ。――あ、髪切った?」
「はい。小町に切ってもらいました」
「……小町に? ふーん。いいんじゃない?」
そう言う割に、少し不機嫌そうなのはなぜなのだろう。
「それよりいさなさん、おれに用事でも?」
氷魚が言うと、いさなははっとしたようにうなずいた。
「あ、ああ、うん。そうだね。――話があるの」
言うなり、いさなは氷魚に背を向けて歩き出した。
もしかして、お説教だろうか。いさなを怒らせるような無茶は最近していないのだが。
内心首をかしげつつ、氷魚はいさなの後に続いた。
屋上へと続く階段のいつもの踊り場で、いさなは足を止めた。
意を決したように振り向き、氷魚の目を見つめる。まっすぐに放たれた矢のような視線に、氷魚はたじろいだ。
「ど、どうしたんですか」
「氷魚くんの明日のシフトは午前中で、午後は暇って言ってたよね」
「――はい。そうです」
「…………」
いさなは目をそらし、それきり黙り込んでしまった。
お腹が減ったのかもしれない。
アンジェリカに行きましょうと言うかどうか氷魚が悩んでいると、
「おまえ、ここに来てそりゃねえだろ」
いさなの影から呆れたような凍月の声がした。
「だって……」
「だったら俺が代わりに言ってやるよ。小僧、明日――」「だめ! わたしが言う!」
凍月の言葉をものすごい勢いで遮ったいさなは再び氷魚をまっすぐに見つめた。果たし合いに望む侍か、決闘するガンマンみたいな表情だ。
そしていさなは言った。
「氷魚くん、明日一緒に文化祭を調査しない?」
いさなの発した言葉を、氷魚はすぐには理解できなかった。
一緒に、文化祭を――
「え、それは……って、調査?」
「そう、調査。ほら、文化祭って言ってみれば学校の非日常じゃない? 普段とは違う日って、怪異なんかが入り込む隙間も多いんだよね。心の隙間も多いせいかな。だから、パトロールするの。みんなの文化祭を守るために」
「は、はあ」
どうにも要領を得ない。なんかって、具体的にはなんだろう。
――あ、そうか。
「もしかしたら、汚れたものが紛れ込んだりする可能性もあると?」
いさなが氷魚を誘うということは、つまりはそういうことだと思う。
一拍遅れて、いさなはこくこくとうなずいた。
「あ、そうだね。その可能性はなくはないね。あまり高くはないと思うけど。――で、どう、かな? もちろん、他に用事があればそちらを優先してね」
デートではなく調査だとしても、一緒に文化祭を回れるのは同じだ。
勇気を出すならここしかないと思う。
「用事なんてないです。空いてます。それで……」
氷魚はつばを飲み込む。
「おれも、いさなさんと文化祭を回りたいです。……その、少しでも、お役に立てるならば」
これがいまの氷魚の精一杯だった。自分にしてはがんばった方だと思う。
「……!」
こわばっていたいさなの表情がほろりとほぐれた。
「小僧、俺は眼中にないのか?」
と、いさなの影からからかうような声が飛んでくる。
「い、いえ。凍月さんも」
「とってつけたように言いやがって。俺はおまけかよ」
「そんなことありませんって」
「そうだ氷魚くん、ミオは元気?」
凍月で連想したのか、それとも凍月の矛先を逸らすためか、いさなは言った。
「元気です。現代の文化に興味津々で、よくテレビを見たりタブレットをいじったりしてますね。文化祭にも来たがってます」
猫の手で器用にリモコンを操作したり、タブレットの画面をタップしたりする姿は愛らしい。
「そりゃさすがに厳しいな。いまのあいつは隠形もできないんだろ」と凍月が言う。
「ですね。まだ魔術やそういう技術は使うのが難しいって言ってました。――ミオと言えば、協会の方は大丈夫なんですか?」
いさなと凍月は人とあやかしの調和を保つ『協会』という組織に属している。
一体どういう組織なのか氷魚もよく知らないが、怪異が引き起こす問題の解決や、強大な力を持つあやかしの監視をしているようだ。
大幅に弱体化しているとはいえミオは神格で、協会の監視対象に含まれる。そして、鳴城での監視役はいさなだ。
「いまのところは大丈夫。特に問題視はされてないよ」
「実質、無力な子猫だからな。今後どうなるかはわからんが。あいつがよき『隣人』であり続けるかどうかは、小僧次第だな」
「ミオに見限られないように、精進します」
「そうだな」
姿は見えないが、凍月がふっと笑った気がした。
「話も一段落ついたところで――氷魚くん、お腹減ってない?」
「小腹が空いてます。肉まんを買うつもりだったんですが、アンジェリカに行きますか?」
一緒に食事に行くお誘いもなかなかにハードルが高いとは思うが、不思議とこちらはすんなりと言葉が出てくる。
「そうこなくちゃ」と、いさなはうれしそうに笑う。
たぶん、この笑顔が確定で見られるからかなと氷魚は思う。




