氷魚の長い1日➆
いさなの突然の告白に、氷魚は言葉もない。
化物とは、比喩的な意味だろうか。戦いになると人が変わったようになるとか、そういう類の。
「氷魚くんも、電車の中で見たよね。わたしの影」
もちろん、覚えがあった。氷魚がカエルの怪物に刺されたときだ。いさなの影が、不自然に歪んでいたのだ。そして、氷魚よりもはっきりといさなの影を目撃したと思われる葉山は完全に戦意を喪失した。
氷魚は無言でうなずく。
「わたしの足元を照らしてくれるかな」
いさなが懐中電灯を差し出した。受け取った氷魚は、言われた通りいさなの足元に光を向ける。すると、砂利道に伸びたいさなの影が不可解な形に歪んだ。
人の形ではありえない。野生の凶暴な獣、いや、それよりももっと恐ろしい存在が眼前で大きく口を開けているような恐怖を感じた。
「――!」
血の気が引いた。葉山が怯えたわけが理解できた。恐怖のあまり、影を視界に入れることすら難しい。言葉では説明できない、生物としての本能が感じる恐怖だった。
存在そのものの格が違う。
思わず後ずさりそうになったが、ぎりぎりで氷魚は踏みとどまった。
歯の根が合わない。膝が隠しようもなく震える。今すぐ逃げ出したい。それでも、氷魚は腹に力を入れて影から目を逸らさない。
不意に、影の胴体と思われる辺りがぱっくり割れた。大きな口だった。
影は、身体全体で笑っていた。
「……っ!」
なけなしの意気地と矜持を振り絞った。悲鳴は、かろうじて上げずにすんだ。
「ありがとう、もういいわ」
強張る氷魚の手を取り、いさなは懐中電灯の光を逸らす。影が人の形に戻っていく。
同時に、恐怖も引いていった。氷魚は細い息を吐き出す。
「見ての通り、わたしの影はわたしのものじゃない。喰われたのよ。あやかしにね」
「あやかし……?」
「妖怪と言った方が伝わりやすいかな」
あやかしよりまだ馴染みのある単語だった。
鬼、河童、猫又――様々な媒体で触れたことがある日本人は多いだろうと思う。
腑に落ちた氷魚の顔を確認し、いさなは話を続ける。
「ずっとずっと昔、鳴城がまだ鳴城と呼ばれる前のこと。この地を根城に、近隣を荒らしまわっていた大妖怪がいたの。老若男女区別なし、時には妖怪も殺して喰らった。あまりに残虐な所業に、冷たい月ですら恐怖で凍りつくと言われたらしいわ」
いさなは深く息を吸い込み、吐き出す。
「そんな大妖怪に、人々が畏怖と憎悪を込めてつけた名は、凍月」
「凍月――」
口にするだけで、薄ら寒くなるような名だ。氷魚は意味もなく周囲を見渡してしまう。
「無論、当時の人たちもやられっぱなしじゃなかった。妖怪退治の専門家を募り、退治に乗り出したの。でも、ことごとくが破れた。もはやこの地を捨てて逃げるしかないのかと人々が絶望した時、刀を携えた1人の旅人が現れたの」
「その刀って、もしかして」
「ええ、猿夢の中でも使っていた刀よ」
いさなが手をかざすと、眼前に光の粒が躍り、刀が出現した。抜身ではなく、黒塗りの鞘に収まっている。
いさなは刀をつかみ取る。夜の闇の中、刀は不思議な光を放っていた。
氷魚はもう驚かない。夢の中に存在できる刀ならば、何もないところから出現しても当然だという気がした。
「旅人は、人々の話を聞くと凍月退治に向かったの。三日三晩の死闘の末、旅人はついに凍月を討ったわ。でも、凍月はあまりに強大過ぎて、完全に滅ぼすことができなかった。そのままでは、いずれ復活して再び悪行の限りを尽くすことは明白だった。悩んだ末に、旅人はある決断を下したの」
いさなは刀の柄頭で自分の胸を軽く突いてみせる。
「自分の身体に刀ごと凍月を封印する。そして、自分が死んだあとは子孫に受け継がせる。それが旅人の決断だったわ。旅人が何者か、どうしてこの刀を持っていたのか、なぜそんな知識があったのかは伝わっていない。役行者の末裔か、禁断の知識に触れた破戒僧のなれの果てか――。何にせよ、その旅人がわたしのご先祖様よ」
突拍子もない話だと、1か月前の自分なら思ったはずだ。信じることなどできはしないと、頭から否定していたと思う。鼻で笑っていたかもしれない。
しかし、今は違う。自分が生きてきた世界がすべてではなくて、薄皮1枚めくった先に怪異や魔術は本当にあると知った。だったら、妖怪が実在していてもなんらおかしくはない。いさなの話は真実なのだと実感できた。
「凍月は新たな宿主の身体に入る際に影を喰らう。だから凍月を宿す者はこう呼ばれるの。――『影無』と」
そこまで話すと、いさなは正面から氷魚の目を見つめた。
「この話を聞いてもなお、氷魚くんはわたしといてくれる?」
そんじょそこらの怪異とはわけが違う。
幻想的なくせにやけに現実的な重みがあったのは、やはりいさなの影を見たからで、人ではありえない形に歪む影には、どうしようもないくらいの説得力があった。
数多の人々を殺めた大妖怪と共存する。
遥かな昔から、何代にもわたって脈々《みゃくみゃく》と受け継がれてきたのだろう。
あまりにも重い役目だと思う。嫌になったからもうやめたと投げ出すことなんて、できはしないのだろう。
いさなにのしかかる重圧がいかほどのものか、氷魚には想像することすらできなかった。
いさなはただじっと氷魚を見つめている。氷魚の返答を待っている。
いさなの側にいるということは、怪異に関わり続けるということだ。いさなを構成する怪異の一片を共有するということだ。
自分にその覚悟はあるのか。中途半端な好奇心だけでは、きっと済まされない。
いさなはどんな思いで氷魚に自分の話をしたのか。
誰かに話すには、途方もない勇気と覚悟が必要だったに違いない。
それでも、いさなは覚悟を見せてくれた。ならば自分も応えなければならない。
――もっとも、悩むまでもなく、答えなんて最初からわかりきっているのだが。
「一緒にいたいに決まってます」
答えは、これ以外にありえなかった。
氷魚の返事を聞いたいさなは表情をくしゃりとゆがめ、すぐさまうつむいて、「……ありがとう」と絞り出すような声で言った。
自分は瀬戸際にいたのだと思う。
いさなの影の変化を見た時、逃げ出したいと思った。もしも恐怖に耐えきれずに背中を向けていたら、自分はいさなの心に深い傷を刻んでいたに違いない。そうして年月が経って自分がああそんな話もあったなと呑気に思い出すような歳になっても、いさなの心には生々しいかさぶたが残り続けているのだ。人を本当に傷つけるとは、そういうことだ。
心の底から思う。
間違わなくて、本当によかった。