ダンス・ウィズ・キャッツ④
ラインでいさなと奏に事情を説明した氷魚は、椅子から立ち上がって大きく伸びをした。2人は当然のごとく驚いていた。
質問攻めにあったが、ラインではうまく説明できなかったので、ひとまず、明日の午後、2人と直接会って詳細を話すことに決まった。午前中は獣医とミオの買い物もあるし、忙しくなりそうだ。
自室を出て居間に向かう。
今日はいろんなことがあった。
猫の女神との邂逅に始まった一日は、怒濤の展開を見せた。猫の女神が同居猫になるとは驚きだ。そもそも、自分が猫と一緒に暮らすなんて、想像もしなかった。
「ちょっと氷魚、散々な目に遭ったんだけど」
居間に入るなり、ミオに恨みがましい目を向けられた。
水鳥に洗われたミオは、見違えるようにきれいになっていた。痩せてはいるが、CMに出ているような猫と比べても遜色ない。
「お風呂、苦手なの?」
「好きっていう猫は少ないと思うわ」
ミオはふてくされたように言う。
「きれいになったんだから、いいんじゃないかな」
「他人事だと思って」
「氷魚、さっきも思ったんだけど、まるでミオと話しているみたいだね。ミオも氷魚に文句言ってるようだし」
水鳥に言われてどきりとした。凍月と話すようなノリでつい普通に話していたが、ミオの言葉は氷魚にしかわからないのだ。
「あー、うん。なんか、そんな感じのことを言ってるかなって。飼い猫に話しかけるって、よくあるんでしょ」
「確かにあるけどね」
水鳥は納得いってないようだ。
「この子もこの子で、やけに聞き分けがいいんだよね。まだ子猫なのに賢すぎるっていうか」
「天才猫なのかもよ。ほら、だるまさんを転んだをやる猫とか、テレビで観るじゃん」
「んー。そうなのかなぁ」
水鳥はじっとミオを見つめる。ミオはごまかすように首をかしげた。
「動画を撮ってユーチューブなんかにアップしたら、バズるかもね」
ひとまず話を逸らす。ミオは氷魚の話に乗っかるように、水鳥の膝に前足を乗せてにゃあと鳴いた。
「……! この宇宙級のかわいさだけで百万再生は固いね」
効果はあったようだ。水鳥はミオを抱き上げて頬ずりする。早くも親バカならぬ飼い主バカを発揮していた。
――これから、ミオとの会話は気をつけないとな。
自分の正気を疑われるだけならまだいいが、ミオの正体がばれるのはなんとしても避けなくてはいけない。
もっとも、ばれたところで信じてもらえるかどうかは怪しいものだが。
猫の女神様だなんて、まだ化け猫の方が信憑性があるかもしれない。
夜半、ドアの開く音で氷魚は目を覚ました。
とん、とベッドになにかが飛び乗ってくる。顔を向けて確認すると、ミオだった。
「ミオ、姉さんと一緒に寝てたんじゃなかったの」
絶対一緒に寝る、と姉が半分拉致する形で連れていったのだ。ミオは諦めた顔をしていた。
「潰されるかと思った。こっちで寝る」
疲れたように言って、ミオは氷魚の足下で丸くなった。かすかな重みを感じる。
「災難だったね」
自分も蹴っ飛ばさないように気をつけなくては。
「ねえ、氷魚」
眠ろうと目を閉じたところで声がかかった。
「ん?」
「動物、飼いたくなかったの?」
思わずミオに目を向ける。
薄暗い部屋の中、布団の上に丸まったミオは、銀と黒の小さなミステリーサークルみたいに見えた。
「そんなことないよ。本当に」
そう言って、氷魚は天井を見上げる。
「だったら、どうしていままで飼わなかったの? 猫や犬じゃなくってもいい。生き物を飼いたいって思わなかった?」
「うん。……さっきからずっと考えてたんだけど、たぶんこれかなっていう理由があったよ」
「聞かせてくれる?」
「怖いんだ」
天井を見上げたまま、氷魚は言った。
「怖いって、動物が、じゃないわよね」
「おれが怖いのは、責任なんだと思う。命を預かる責任が、怖い」
「責任――」
「自分の命に対して無頓着なおれが、別の命を預かれるのかなって、たぶん、ずっとそう思ってた」
「たぶんって、曖昧ね」
「あんまり自覚がなかったから」
「氷魚は、自分の命に無頓着なの?」
問われて、ミオになら言ってもいいかと思った。
「おれ、小さい頃に死にかけてるんだ。以来、自分を雑に扱う傾向があったみたい。捨て鉢なつもりはなかったんだけど」
「いまは違うのね」
「そうありたいと思ってる。命は大切にしたいよ」
「ならいいわ」
「おれからも訊いていい?」
「私の年齢を含むプロフィールは内緒よ」
「そっちも気になるけど、おれが言ってるのは……」
「冗談よ。なに?」
「ミオって、どんな子なの?」
ミオはアメリカンショートヘアーなのは間違いない。とすると血統書付きの猫のはずだ。捨てられるとは考えにくい。だって、ブリーダーに譲ってもらったりペットショップで購入したのなら、本当に、心から飼いたいと思って迎えたのだろうから。
もし逃げ出したのだとしたら、飼い主は絶対心配し、悲しんでいる。もしそうなら、元の家に戻してあげる方がいいのではないかと思う。もっとも、その場合、ミオは前のミオではないのが問題だ。
「やさしい子よ。とてもね」
そう言うと、ミオはふっと息を吐いた。
「この子の身体に入ったときに記憶が見えたんだけど、この子、捨てられたのよ」
「捨てられた……」
少なからずショックだった。一番可能性が低いと思っていたのに。
「ええ。子どもをひっかいた。ただそれだけの理由で」
氷魚は、どうしてそれが捨てることに繋がるのか、すぐにはわからなかった。
「……? だって、猫だよね。ひっかいたりするのは、当たり前なんじゃ」
「遊んでいたの。子どもとね。子どもが猫じゃらしを振って、ミオが飛びかかる。けど、遊んでいるうちに興奮した子どもが思い切りミオの尻尾を引っ張った。ミオは、反射的に子どもの手をひっかいてしまった。血が出て、子どもが泣いて、そしてそれをたまたま見ていた父親が激怒した」
「ミオは、悪くないじゃないか」
まだ子猫なのだ。加減だってうまくできないに違いない。尻尾を引っ張られたら、手が出てしまうのも無理はないと思う。
「人からすればそうじゃなかった。子どもは『こんな子もう要らない』って泣いて、父親は『だったら捨ててきてやる』って。一緒にペットショップで選んで買ったミオを、親子はそうして捨てた。車でわざわざ鳴城まで運んでね。あんなにかわいがってたのに、あっけないものよ」
「そんなのって……」
氷魚は布団の中で拳を握る。ミオの話を事実として受け止めることはできたが、納得などできるはずがない。あまりに身勝手な理由に、腹の底が熱くなる。
「本人も捨てられた自覚がある。それでも、家に帰ることを望んでいた。もう一度迎え入れてもらえることを期待して、結局、叶わずに力尽きてしまったのだけど……」
「どうして、そんな家に帰りたいなんて……」
自分を反吐が出るような理由で捨てた家なのだ。なぜ、帰りたいなんて望むのだろう。
「一緒に過ごした時間、愛してもらった記憶は本物だから」
氷魚は思わずミオに目を向けた。
きれいな琥珀色の瞳が、こちらを見返している。
「その記憶を抱いたまま、力尽きたミオは私に身体を差し出してくれたの」
腑に落ちた。
なぜ、猫の女神が自分の名を捨てたのか。この子猫の名前を名乗るのか。
身を起こした氷魚は、手を伸ばしてミオの背中を撫でた。しっとりとした毛並みはさわり心地がいい。
「――だから、きみはミオを名乗るんだね」
一時のことだったとしても、人の家族と過ごしたのは子猫にとってかけがえのない時間だった。
強いし、なによりやさしい子だと思う。恨みに思っても無理はないのに。
「私は復讐を司ってはいないけど、この子が望むなら人間に報いを与えてもいいと思った。でも、この子はきっとそれを望まない。やさしい子なのよ」
「そうだね……」
「前の飼い主なんか目じゃない、素敵な飼い主を見つけてあげたいけど、なにせ中身が私だからね。普通の人間には荷が重すぎる。そこで氷魚の顔が頭に浮かんだってわけ。これも神様の思し召しってやつじゃない?」
「神様はきみだろ」
氷魚は苦笑した。ミオも相好を崩す。
「ああ、そうだったわね」
氷魚は再び身を倒して天井を仰いだ。
足にかかるミオの重みに、命を意識する。
怪異にちょっと遭遇しているだけで、自分も普通の人間なのだ。特別なことなんてなにもできないかもしれない。
――でも。
ミオを幸せにするために、できるだけのことはしよう。




