ダンス・ウィズ・キャッツ②
聞き覚えがある声だった。
「私がわかる?」
「猫の女神様ですよね」
氷魚が言うと、猫の女神はうなずいた。
「そうそう。この子、かわいいでしょ。大きくなったらきっととびきりの美人になるわ。アメリカンショートヘアーっていうんですって。今の時代、たくさんの種類の猫がいるのね」
女神はうれしそうに言っているが、気がかりがある。
「さっきは精神体でしたよね。その身体は?」
「――ちょっと訳ありでね。無理矢理奪ったわけじゃないから、安心して」
猫の女神からいやな気配はしない。沢音を前にしたときのような感覚がある。大きな、こちらを包み込むような感覚だ。
「わかりました。あなたを信じます」
「ありがとう」
「それで、おれはいさなさんの付き人じゃないけど、なにかご用ですか」
「あら、そうなの? 一緒にいたから、てっきりそうだと思ったのだけど、まあいいわ。あなたに頼みがあるの」
ここに連れてこられた時点で予想はしていたが、頼み事があるのはトラ猫ではなく猫の女神のようだ。
「聞くだけ聞きます」
一体どんな頼み事なのか。いさなではなく自分に言うくらいなのだから、とんでもない無茶ぶりではないと思うが。
「あなた、私の缶切りになってくれない?」
猫の女神は氷魚の目を見つめて言った。
「缶切り……?」
氷魚は首をかしげる。どういう意味だろう。
「説明しよう」
一匹の猫が前に進み出た。長毛種の立派な猫だ。
「飼い猫は、飼い主のことを冗談半分で缶切りと呼ぶのだ。我々の慣用表現の一種さ。缶入りのキャットフードは猫の爪では開けられんからな」
長毛種は前足を持ち上げてみせた。
飼い主は飼い猫に奉仕するもの、ということだろうか。猫の飼い主からすればあるあるなのかもしれないが、猫から目線この上ない。
「なるほど。しかし、なんでおれなんですか」
「影無の側にいた人間っていうのもあるけど、あなたがお人好しで人畜無害そうに見えたっていうのが大きいわね」
凡庸な見た目なのは自覚があるが、お人好しかどうかは知らない。
「そうですか?」
「そうよ。呼ばれて何の疑いもなくシゲトラについてきたのがその証拠。罠だったらどうするのよ」
シゲトラというのは氷魚をここまで導いたトラ猫だろう。言われてみれば、罠であってもおかしくはなかった。
「……その可能性は考えませんでした」
「だから、あなたなの」
そう言われると、確かにお人好しなのかもしれない。単に不用心というのもありそうだが。
「――おれを選んだ理由はひとまずわかりました。けど、まだ気になることがあります」
「なにかしら」
「あなたが缶切り――飼い主を必要とする理由です。もし、本を散らかすことに関係しているのなら、おれは受け入れられません」
猫の女神の瞳が鋭く光る。
「あら、いいのかしら。私たちが一斉にかかったら、あなた、ただじゃすまないわよ」
「そうだぞ。おまえの家の庭で毎朝うんこするぞ」
女神に続き、トラ猫――シゲトラが言う。
どっちも遠慮願いたい。だが――
「それでも、です」
「どうして?」
「いさなさんを、裏切りたくないから」
そこだけは、どうしても譲れない。
いさなは自分を信じてくれているし、自分もいさなを信じている。だから、自分はいさなを絶対に裏切らない。
「――ふうん。そう」
猫の女神の瞳が鋭く光る。それに呼応したのか周囲の猫が殺気立つ。すさまじいプレッシャーだ。猫も獣であることを否応なく思い知らされる。
――怖い。
背中を冷や汗が伝う。
猫たちが本気を出したら、人間の自分が走って逃げてもあっさり追いつかれてしまうだろう。ひっかき傷だらけになるにせよ、できるだけ被害は最小限にしたい。
逃げるタイミングを伺っていると、猫の女神はふっと身体から力を抜いた。
「なんてね。ごめんなさい。あなたの反応を見たかったの。ただの人間なのに、なかなかの胆力ね。私たちの脅しにも屈さないなんて。みんな、もういいわよ」
猫たちも殺気を引っ込める。
氷魚はどっと脱力した。それにしても、しゃれにならない圧力だった。
「びびって動けなかっただけですよ」
「ふふ。そういうことにしておこうか。――本を散らかすのはもうやめるわ。あの人間の女の子にも謝るつもり」
「そうですか……」
ならば、今回の騒動はひとまず一段落と考えてもいいのだろうか。
「私が飼い主を必要とする理由だったわね。私は、この子を幸せにしてあげたいの。だから、あなたに頼みたい。影無と、あやかしの気配がする女の子の側にいる人間のあなたに」
「幸せ?」
「ええ。それが、私がこの子にできる恩返しだから」
「というと?」
「死にかけていたのよ、この子。それで、私に身体を使ってくれって」
思いも寄らない理由だった。
子猫の痩せ具合を見るに、死にかけていたのは嘘ではないと思う。身体を使ってくれというのも本当だろう。
献身か、信仰か。
子猫は、一体なにを思って猫の女神に身体を差し出したのか。
幼い子猫が自分の死を受けいれるのに、一体どれほどの勇気が必要だったのだろう。
自分が、その勇気に報いるにはどうしたらいいだろうか。
ためらいがないわけではない。
自分がこの子猫を幸せにできるかどうかもわからない。
それでも、答えは一つしかなかった。
「どうかしら?」
猫の女神は上目遣いで尋ねる。
腹は決まっていたが、それがとどめだった。
「――まずは、家族を説得しないといけないですね。たぶん大丈夫でしょうけど」
両親も姉も動物が嫌いというわけではない。氷魚が生まれる前、犬を飼っていたと聞いている。
「! それって」
「缶切りでも飼い主でもない。同居人で良ければ、一緒にいきましょう」
「あくまで対等の立場ってわけね。いいわよ」
「ふん。そんなことを言ってられるのも最初のうちだけだ」
「一緒に暮らし始めたら、すぐに猫の魅力にやられるだろうさ」
「俺たちの女神様はサイコーなんだぜ。よく知らないけど、たぶん」
猫たちが口々に言う。思ったより、しゃべれる猫は多いらしい。
「そうかもしれませんね」
氷魚は笑うとかがみ込んで腕を伸ばした。
「猫の女神様、おれは橘氷魚です。あなたの名前を教えてくれますか」
「ミオ。美しい尻尾って書いて、美尾。この子の名前よ」
「女神様の名前は?」
「捨てたわ。私にはもう必要ない」
彼女がそう言うのなら、その意志を尊重しようと思う。
「――わかった。じゃあミオ、行こうか。おれたちの家に」
「ええ。よろしくね、氷魚」
そうして、ミオは氷魚の腕の中に飛び込んだ。




