ダンス・ウィズ・キャッツ①
夕食後、お腹が落ち着くのを見計らって、トレーニングウェアに着替えた氷魚は家を出た。日課のランニングのためだ。
夏以降、用事があるときやよほど天気が悪いときを除いてほぼ毎日走っている。
鳴高伝統、秋のマラソン大会に備えてというのもあるが、体力作りが主な目的だ。
いざというときに備えて、体力はあるに越したことはない。筋トレもまめに行うようにしている。アクション映画の主人公みたいなムキムキにはなれないにせよ、ちょっとは力もついた。
昔の自分だったら、筋トレなんてきっとしなかったと思う。少し力が強くなったところでいさなや奏みたいに怪異と戦えるわけではないけれど、やらないよりはずっといい。
夜の鳴城を走り始める。
そろそろ肌寒くなる季節だが、すぐに身体が温まった。呼吸を乱さないように、一定のペースで走り続ける。
走っている間は無心になれるのがいい。走ることだけに集中するので、他のことは考えなくてすむ。
「ねえ」
そんな声が聞こえたのは、家を出て10分くらい経った頃だろうか。少年の声みたいだった。
氷魚は足を止めた。
前方に人影はない。
気配はしなかったが背後からかと振り向くが、誰もいなかった。
もしかして、怪異の類か。
呼びかけてくる怪異は珍しくないらしいし。ねえ、なんて、いかにもそれっぽい。
いさなに連絡するか、それとも走って逃げるか迷っていると、「こっちだよ」とさらに声がかかった。
見れば、塀の上に猫がいる。
トラ猫だった。図書館で見かけた猫に似ている。
まさか――
「おれに声をかけたのは、きみ?」
氷魚が言うと、トラ猫は尻尾をぱたりと振った。
「そうだよ」
「やっぱり、気のせいじゃなかったか」
「そこはもっと驚くところじゃないのかい」
トラ猫は不服そうだった。ならば――
「うわっ! 猫がしゃべった!」
「大根か」
お気に召さなかったようだ。
「弓張さんに演技指導を頼んだ方がいいかな」
驚いたのは事実だが、飛び上がるほどではなかった。棒読みになってしまうのも仕方ない。
トラ猫は呆れたように嘆息する。
「あんた、変なやつだね」
「しゃべる猫に言われると複雑な気分になるね。そういうきみは猫又? 化け猫?」
「もどきかな。普通の猫じゃないけど、あやかしでもない。人の言葉を解する猫って、けっこういるもんだよ。しゃべれるやつは少ないけどね」
トラ猫は得意そうに言った。
猫好きはよく「猫は人の言葉をわかってる」と言うらしいが、本当だったみたいだ。
「なるほど」
「さっきから淡泊なリアクションだね。まぁ、影無の側にいるなら、しゃべる猫なんて珍しくもないか」
「そんなことないよ。十分珍しい。……ここ最近、いろんな怪異に遭遇したから感覚が麻痺している感はあるけど」
以前の自分だったら、猫がしゃべるなんて、まず己の正気を疑っていたと思う。
「ふうん。あんたもいろいろ大変なんだね」
「どうかな。で、おれになにか用?」
タイミングを考えると、猫の女神絡みだろうか。
「あんた、影無の付き人だよね。頼みたいことがあるんだ」
「いさなさんじゃなくて、おれに?」
トラ猫は影無の存在を知っているようだ。しかし、だったらなぜいさなではなく自分に頼むのか。
「そう。あんたに」
トラ猫はじっと氷魚を見つめた。訳ありなのかもしれない。
「――わかった。付き人ではないけど、話は聞くよ」
「ありがとう。じゃあ、僕についてきてくれ」
地面に降り立ったトラ猫は、人の早歩きくらいのペースで走り出した。
しゃべる猫の後についていくなんて、冒険ものみたいでちょっとわくわくする。
氷魚はトラ猫の後について走り出した。
20分ほど走っただろうか。トラ猫は空き地の前で足を止めた。背の高い草が茂っている。場所的に、芝宮小学校に近い。
「こっちだよ」
氷魚はトラ猫の声を頼りに腰の辺りまである草をかき分け、空き地を進む。
ほどなくして、囲いに覆われた場所に出た。小さな祠があり、その前には数匹の猫がいる。氷魚を案内してくれたトラ猫も混ざっている。
「――」
氷魚の目は、中央にいる一匹に引き寄せられた。
痩せた子猫だった。
銀と黒のまだら模様の毛並みはアメリカンショートヘアーだろうか。
栄養が足りていないのか、見ていて心配になる細さだ。
しかし、不思議とその小さな身体からは威厳のようなものが立ち上っていた。小さいながらもきれいな尻尾を優雅に一振りすると、子猫は口を開いた。
「来てくれてありがとう。影無の付き人」




