猫の女神
――私は一体なにをやっているのだろう。
久しぶりに人にお願い事をされたからとはいえ、本を散らかして回っているなんて。
子どものいたずらと大差ない。人々に忘れ去られはしたが、自分は神なのに。
自分に願いをかけたあの子どもだって、大して喜んでくれないに違いない。
そもそも、少女が本気ではないのは明らかだった。
だから、単なる自己満足だ。
わかっている。わかっているのだが――
「情けないな……。ん?」
夜明け前、自分のささやかな祠に帰り着いた猫の女神は、寝床の前に子猫が横たわっているのを発見した。
銀と黒の縞模様の毛並みを持つ子だ。元はきれいだったのであろう毛並みは、すっかり艶を失っている。
母猫とはぐれたのか、それとも人間に捨てられたのか。なんにせよ、迷子になってここで力尽きたらしい。
子猫は、虫の息だった。
「ねえ、あなた」
猫の女神が呼びかけると、子猫は瞼をうっすらと開けた。わずかに首をもたげる。
「――よかった。かみさまは、本当にいたんですね」
「あなたは、私のことを知ってるの?」
「声が聞こえたんです。こっちにおいでって。でも、わたし、声がしたほうに行く元気がなくて。それで、どうにか、かみさまの気配がするここにたどり着いて……」
さきほど、図書館で自分が周囲の猫に呼びかけたときの声が、この子にも届いていたのだ。
他の子たちはねぐらや家に帰るように誘導した。だが、この子は帰れなかった。
「……わたし、迷子なんです。家に帰りたいのに、帰れなくて。いつの間にか、知らないところに来てたんです」
「そうだったの……」
迷子だという子猫と自分の境遇が重なる。
思えば、自分も遠い異国に来て帰れなくなった迷子みたいなものだ。分霊とはいえ、多少なりとも郷愁の念はある。
「帰りたかったけど、もう、無理みたいです。一歩も動けません……」
そう言って、子猫はくたりと首を地面に着ける。
「ごめんなさい。いまの私では、あなたを助けることができない」
子猫の魂は身体から離れかけており、猫の女神にはそれを食い止めるすべがなかった。
精神体だけの存在、しかも信仰すらない現状では、自分は無力に等しい。近くの猫を呼ぶ他は、せいぜい本をひっくり返すことぐらいしかできない。
不甲斐ないと吐き出す嘆息すら持ち合わせていなかった。
「いいんです。わたしは、最後に、かみさまに会えただけで十分です」
「せめて、身体があれば……」
受肉すれば、信仰がなくともいまより強い力を振るうことができる。死にかけている子猫を助けることも、あるいは可能かもしれない。
数百年前に鼠のあやかし――旧鼠と戦った際には、この地の猫の身体を借りたのだ。
「かみさまは、身体が欲しいんですか?」
「そうね……。ないものねだりだけど」
「だったら、わたしの身体を使ってください」
意外な子猫の申し出だった。
「え……?」
「わたしはもうじき死ぬんですよね。その後でかみさまに身体を使ってもらえるのならば、うれしいです」
「――」
猫の女神は葛藤した。
自分が依代として使うのであれば、この子の『身体』は生きながらえる。
しかし――
以前の猫には適性があったから、依り代になっても自身の意志を保つことができた。
だが、この子は多分無理だ。
弱りきっている子猫の精神は、女神が宿ればひとたまりもなく消し飛んでしまうだろう。
助けたいと願う相手の精神を犠牲にしてしまったら、本末転倒だ。
「わたしでも、誰かの役に立ちたいんです」
子猫の目には強い光があった。確固たる意志の力を感じた。
子猫は自分の死を受け入れている。諦めではなく、自然の流れとして。
怖くないはずがないのに。寂しくないはずがないのに。
幼くも誇り高き猫の心意気に応える方法は、ひとつしかなかった。
「――わかった。あなたの身体、使わせてもらう」
女神の言葉を聞いて、子猫は安心したように微笑んだ。
「……ありがとうございます」




