夜の図書館③
「おかえり」
部屋に入ると、いさなと奏が出迎えてくれた。
「どうだった?」
「いさなの体重とスリーサイズを訊かれたから、教えておいた」
前触れもなく、凍月はとんでもない爆弾を投下した。
「凍月さんっ!?」
氷魚の声が裏返る。
「――」
女子2人は揃って絶句した。それから、心なしか蔑みの混じった視線を氷魚に向け――
「う……ウソですウソです! 訊いてないし教えてもらってもいません!」
焦った氷魚がぶんぶんと手を振り回すのを見て、いさなと奏は苦笑した。
「そうだよね。大丈夫。氷魚くんを信じるから」
「ですね」
「なんだよ。俺のことは信じないのか」
「時と場合による。今回は信用できない」
「わかってるじゃねえか」
氷魚はほっと胸をなでおろした。
どうやら、事なきを得たようだ。
「――でもさ、ひーちゃん。ホントは知りたかったり、する?」
と、音もなくするすると近寄ってきた奏が氷魚の耳元で囁く。ぞくりとした。
固まった氷魚を見て、身を離した奏は悪戯っぽく笑う。
「なんてね、冗談」
最近、疑問に思う。
どうして、あやかしや、あやかしの血が入っている人は、自分のことをからかうのだろう――
「氷魚くん、起きてる?」
いさなの囁き声と共に肩をゆすられて、座り込んでいた氷魚は目を開けた。
「起きてます」
交代で仮眠を取っていたのだが、いろんな意味を含んだ緊張のせいでまったく眠れなかった。
「凍月が気配を感じたの。こっち」
いさなの後ろにくっついて、身を低くした氷魚は館内側の窓際まで移動する。そこでは奏が窓から館内の様子を窺っていた。傍らには凍月もいる。
「どう?」
「見てください、あれ」
奏は窓の外を指さした。闇の中、白い霧みたいなものが書架の間を漂っているのが見える。わずかに発光しているのか、そこだけくっきりと輪郭があるみたいだ。
「幽霊……?」
呟いてはみたが、以前鳴城城址で出会った姫の幽霊とは印象が全然違う。姫は生前の姿を保っていた。
「いや、違う。こいつは……」
凍月が氷魚の呟きを否定する。やはり、正体に確信があるような口ぶりだった。
「いままでのも、あれが犯人っぽいですね」
白い霧が移動するたびに、バサバサという音がする。暗くてよくわからないが、どうやら、本を書架から落としているらしい。夜目が利く奏や凍月にははっきり見えているのだろう。
「先輩」
「うん、出るよ」
ペンライトを持ったいさなは児童書コーナーを飛び出した。奏と氷魚も後に続く。
「止まって。協会の者です」
いさなは白い霧に向けて鋭く言った。相手を刺激しないためか、刀は呼び出していない。
白い霧はぴたりと動きを止めた。いさなの声に反応したのだろうか。
「――協会?」
白い霧から言葉が聞こえた。女性の声だった。
「そうです。見たところ霊体のようですが、あなたは何者ですか」
「協会だかなんだか知らないけど、あなたに名乗る必要は無い――って、懐かしい気配がするわね」
「よお。久しぶりだな。猫の女神さんよ」
いさなの足元を抜けて、前に進み出た凍月が言った。
「やっぱり、凍月か。元気そうね」
白い霧の言葉が柔らかさを帯びる。旧友に再会したような口調だ。
「凍月、知り合い?」いさなが尋ねる。
「昔馴染みだ。こいつは異国の神だよ。猫の女神で、名は」「やめて。私はただの分霊。この地の人間には名前すら忘れ去られたの」
白い霧は、嫌そうに凍月の言葉を遮った。凍月とは顔見知りで間違いないようだ。
それにしても、猫の女神とは。
あやかしがいるのだから、神様が本当にいたってなにもおかしくない。理屈ではわかるのだが、新しい驚きがあった。
「――わかったよ。で、おまえは一体全体どうして本をぶちまけて回ってるんだ。棚の上から物を落とす猫じゃあるまいし、理由があるんだろ」
「頼まれたからよ」
「頼まれた?」
「そうよ。あの子は私の像をきれいにしてくれたの。だから、お礼に願いをかなえることにした」
「本をぶちまけることが?」
「正確には『世界から本をなくして』だったけど、私のいまの力じゃ無理だからね。これが精いっぱい」
ということは、力があったのなら、小学校の図書室や豊園堂、そして図書館の本そのものを消し去っていたのだろうか。
『彼女』に願いをしたのが誰かはわからないが、だいぶ無茶な願いだ。
「なんだよ、その願い」
凍月は呆れたように言う。
「さあね。なにか書物を嫌いになる理由でもあったんじゃない?」
「おまえ、この地では信仰を失ってたよな。なのに、人の願いを叶えるのか」
「捨てる神あれば拾う神あり、でしょ。自分で言ってて虚しくなるけどね」
自嘲気味に言って、白い霧――猫の女神はわずかに震える。笑ったのかもしれない。
凍月はゆるく首を振った。
「事情は大体わかったが、おまえのしてることは協会の規定に反する。あやかしを含む人外はむやみに怪異を起こしてはならないってな」
「なにそれ。協会もだけど、規定? 私がうたた寝している間に、そんなものができたの?」
「人と人以外がうまくやっていくためには、お互い手を取り合わなきゃいかんのさ。あやかし側の大物も賛同してるぜ」
「凍月、あなたはそれでいいの?」
「良いも悪いも、俺に選択肢はねえよ」
「……そうだったね。あなたは昔っから人と共にあった。影無だっけ。そっちの子が今代?」
「ああ」
「遠見塚いさなです」
神様を前にしてもいさなは動じなかった。きれいな所作で頭を下げる。さすがだ。
「ふうん。他の子たちは、と」
目はなくとも、猫の女神がこちらに意識を向けたのを感じる。




