あやかしのサガ⑳
奏の発言を小町と書いていた部分の誤字報告、ありがとうございます。修正しました。何回か読み返しているんですが、どうしても見落とす部分があるのがなんとも……。
「右に曲がってくれる?」
「わかりました」
いさなの誘導に従い、廊下を歩く。こんなに奥の方まで来たのは初めてだ。やはり、相当広い。廊下を雑巾がけするだけでも大変そうだ。
「ここが、わたしの部屋」
奥まった場所にある部屋の前でいさなは言った。
「開けますね」
いさなを片手で支え、氷魚は襖を開ける。
「照明のスイッチは右手の方にあるよ」
言われるままに手で探り、スイッチを入れる。
部屋が明るくなった。
簡素な畳敷きの部屋だった。年季の入った箪笥に、机と椅子、それに本棚以外、ほとんど物がない。
昔からこうなのか、それとも、いさながこの家を出ていってからこうなったのか。どことなく、物寂しい印象を受ける。
「とりあえず、下ろしてくれるかな」
「はい」
氷魚はそうっとかがみこむ。背中から下りたいさなは、椅子に横向きに腰かけ、細い息を吐き出した。
「ありがとう。助かった。自分の足で歩いてくるのはつらかったかも」
「少しでもお役に立てたのなら、よかったです」
「――さっきも言ったけど、氷魚くんは足手まといなんかじゃないよ」
「でも……」
いつも守られるばかりだ。自分には怪異と戦う力はないし、身に付けられるとも思えないが、不甲斐ないという気持ちはどうしても消せない。
「直接戦うだけが力じゃないから」いさなは微笑む。
どういう意味だろう。
「――あ、汚れたものを察知することとか?」
それなら、かろうじて特技といえるかもしれない。
「まあ、そういうことにしておこうか」
そこで、襖越しに「入ってもいいかな」という声がした。
いさなが「どうぞ」と返すと、救急箱を持った道隆が入ってくる。
「それじゃあ、きちんと手当てしようか」
「うん。お願い」
救急箱を畳に置いた道隆は、中から包帯を取り出した。
「おれ、外で待ってますね」
背中の手当てをするのに、自分がいたら障りがあるだろう。氷魚はそそくさと部屋の外に出た。
廊下を歩き、庭を見渡せる縁側に腰かける。まん丸の月が浮かぶ、きれいな夜空だった。
「小僧、お疲れだったな」
不意に、後ろで声がした。振り向けば、凍月がとことこと廊下を歩いてくる。
「凍月さん。いや、おれは何も……」
「んなこたぁない。台風娘のお守に、いさなの運搬。大仕事じゃねえか」
凍月は、氷魚の横にちょこんと座る。
「言い方」と氷魚は苦笑した。
「なぁ小僧。おまえ、小娘のことをどう思ってるんだ」
「小娘って、弓張さんですよね。急にどうしたんですか」
質問の意図がわからず、氷魚は首を傾げた。
「いいから」
凍月に促され、氷魚は少し考えて、
「友達だと思ってます」と答えた。
「それだけか?」
「あとは――すごいひとだなと」
「すごいって、どうすごいんだ」
「そうですね。弓張さんの演技って、胸に来るんです。彼女が演じている登場人物の心情が、痛いほど伝わってくる。幸せな場面ではこちらも幸せになるし、つらい場面では応援したくなる。困難を乗り越えた時は、こちらも力をもらえた気になるんです。よし、自分も頑張ろうっていう力を、周りの人間に与える。それって、すごいことだと思いませんか」
「ああ。だが、そりゃ別に小娘の専売特許でもないだろ」
「え?」
「女優とかそういうのは関係ない。誰にだってできるはずだ」
「それは、そうかもしれませんが……」
決して簡単なことではないと思う。少なくとも、ある程度のカリスマが必要なのではないか。
「おまえだって、自分が知らないところで誰かに力を与えているかもしれないぞ」
「おれが? ……いや、どうかな」
自覚はまったくない。
「まあ、いいさ。で、小娘はおまえにとって憧れの存在だったのか?」
「ファンではありますね」
「直接会ってみて、どうだったんだ」
「すごいっていうのは変わりませんけど、あんなに親しみやすいひとだったのは、意外でした」
テレビの向こうにいた奏は、実際に会って話してみると、自分と同じ地続きの上にいる、自分と同じ高校生だった。意外だったが、嬉しくもあった。
「そうか」
「弓張さんが、どうかしたんですか?」
「いいや、ちっと訊きたかっただけだ」
凍月は、それ以上説明する気はなさそうだ。なら――
「凍月さん、おれも訊いていいですか」
「なんだ」
いさながいない状態で凍月と話せる機会など滅多にない。今のうちに、はっきりさせておきたいことがある。
「いさなさんって、春夜さんが好きだったんですか」
単刀直入に、氷魚は言った。
「やっぱり、わかるか」
「いさなさん、星祭りの夜の日に言ってましたからね。雅乃『も』春夜が好きだったんだと思う、って」
「無意識だったんだろうな。あいつは自分の失言に気づいてない」
いさなは、自分の気持ちに蓋をしているのかもしれない。
自分が好きだった相手にいとこを殺されたのだ。当時小学生だったいさなの受けた衝撃は、いったいどれほどのものだっただろう。
「今のいさなさんは、春夜さんを……」
凍月は、ゆるゆると首を横に振る。
「俺にもわからん。単純に恨んでいるだけっていうんだったら、まだ楽なんだろうが。……簡単には、割り切れねえのかもな」
「そうですか……」
「だから、あとはおまえ次第だ。これからも気張れよ――氷魚」
「それって、どういう……? って、凍月さん、おれの名前を」
凍月はにいっと笑ってみせると、大きく伸びをして、悠々と歩き去っていった。
見送ってから、考える。
いさなは、もし春夜と再会したら、どうしたいのだろうか。
そして、自分には何ができるのだろうか。
おまえ次第と凍月は言ったが、どうすればいいのかわからない。少なくとも、今は、まだ。
氷魚は再び夜空を見上げる。
先ほどと変わらぬ大きくて丸い月が、煌々と輝いていた。




