氷魚の長い1日⑤
部室は星山の目があるので、作戦会議は場所を移してアンジェリカで開くことになった。
いさなは生ハムのジェノベーゼピザを頼み、氷魚は晩ご飯前なのでコーヒーだけを頼んだ。アンジェリカのコーヒーは無難な味で、とりあえず頼むにはちょうどいい。
「いさなさんは、早めの晩ご飯ですか?」
すぐに運ばれてきたコーヒーを一口すすって、氷魚は尋ねる。
「え? 晩ご飯はあとでべつに食べるけど」
妙なことを訊くのねという顔で返された。恐る恐る、氷魚は質問を重ねる。
「ちなみに、夜は何を食べるんです?」
「肉久でトンカツを買って帰って、カツ丼にする予定。あとコロッケをつける」
戦慄の回答だった。
肉久は畑村商店街にある肉屋で、コロッケが名物だ。トンカツは普通の味だが、とにかくでかい。成人男性でも1枚食べたら満腹間違いなしで、断じてピザを丸々1枚食べた後の腹に収まる代物ではない。しかもコロッケつきとは。
いさなの胃袋はどうなっているのだろう。宇宙にでも繋がっているのか。
「わたしの晩ご飯はひとまず置いておいて、やっぱり今晩、城址に行こうと思うの」
星山に釘を刺されたとはいえ、そう来るだろうと予想はしていた。
だから、氷魚もあらかじめ決めておいた言葉を口にする。
「おれも行きますよ。キョーカイ部の部員ですから」
「危ないかもしれないよ」
「怪異云々以前に、夜の城址に女の子1人のほうがよっぽど危ないですよ。変なのが出たらどうするんですか」
去年の冬、夕方の城址で、近隣にある鳴女――鳴城女子高等学校の生徒に裸を見せた変質者がいたのだ。
ローカルニュースでも報道されたので、氷魚も知っている。コートの下はすっぽんぽんで、なぜか腹巻だけ巻いていたらしい。変質者はすぐに逃げて、今も捕まっていない。一緒にニュースを見ていた姉は、『許せない。あたしだったら股間を蹴り上げてた』と憤っていた。姉なら本当にやりかねない。
忽然と姿を消し、いつしか腹巻おじさんと呼ばれるようになった変質者も、現代の生きる都市伝説と言っていいかもしれない。少し違う気もするが。
「夜なら変質者どころか、人っ子1人いないと思うけど」
「そういう問題じゃないです」
犯罪も人口も少ない鳴城だが、油断は禁物だ。
「氷魚くんって、けっこう頑固なところがあるよね」
「いさなさんこそ。部長が止めたのに引かないでしょ」
「む……」
「それに、もし、怪異に遭遇してもいさなさんが守ってくれるんですよね」
「――それは、まあ、そうね。うん、今度こそ守り抜く」
「だったら、おれが同行しても構いませんね」
氷魚が強めに攻め込むと、いさなは根負けしたように、
「わかった。お願いするわ。本音を言うと、ちょっぴり怖かったの」と同行を認めてくれた。
いさなの恐怖の対象は亡霊ではないと思う。おそらく『人』だろう。男の氷魚でも変質者は怖い。女子ならなおさら怖いと思うだろう。浮世離れしているいさなだが、そういう感覚は普通の女子高生で、氷魚は少し安心した。
「お待たせしました」
生ハムのジェノベーゼピサが運ばれてくる。この前食べたバジルたっぷりマルゲリータ同様、おいしそうだ。食欲をそそるいい匂いが鼻腔をくすぐる。
「よかったら、氷魚くんも一切れ食べる?」
ものほしげに見えたのか、いさなは皿を氷魚に向けて一押しする。
「せっかくですが、晩ご飯が食べられなくなるので、遠慮しておきます」
魅力的な提案だったが、一切れといえども奪うのは心苦しい。氷魚はそっと皿を押し戻した。
「そう? だったらわたしだけで食べちゃうね」
いさなはそれ以上勧めることはせず、幸せそうにピザを食べ始めた。
幸福に満ちたいさなの顔はいつまでも飽きずに見ていられるが、じっと見つめていたら食べにくいだろうし、気持ち悪がられるのも嫌なので氷魚は目を窓の外に向けた。相変わらず雨が降り続いている。向かいの建物の軒下に一匹の猫がいる。
三毛猫だった。
三毛猫は、こちらをじっと見つめている。猫は嫌いではないが、氷魚はなんとなく居心地の悪さを感じる。
「いさなさん、あの猫なんですが……」
氷魚は視線を正面に戻し、いさなに声をかけた。
「ん? ふぉこ?」
ピザを頬張ったまま、いさなは窓の外を見やる。口の中を空にしてから、
「――失礼。猫なんていないけど」と言う。
「え――?」
一瞬だった。氷魚が少し目を離した隙に、猫の姿は消え失せていた。
「ついさっきまではいたんですが」
「一時の雨宿りでもしてたんじゃない?」
言われてみれば、そんな気もしてくる。
「そうかもしれませんね」
「猫がどうかしたの?」
「ただ、かわいかっただけです」
「そう……?」
いさなは怪訝そうな顔をしたが、それ以上は追及してこず、ピザに意識を戻した。
氷魚は再び窓の外に目を向ける。
気にする必要なんてないと思う。
今晩、夜の城址に行くということで、神経質になっているのかもしれない。猫なんて、べつに珍しくもない。たまたま軒下にいて、たまたま目が合っただけだ。尻尾がふたつに別れていたわけでもない。しかし――
あの三毛猫の瞳、まるで人間の目みたいではなかったか。