あやかしのサガ⑯
その日の夜、夕食後に、氷魚は遠見塚家に赴いた。奏はいない。事情は話してあるが、体調が完全には戻っていないのと、一応小町の見張りも必要ということで、自宅待機となったのだ。
いさなは準備があるというので、氷魚は先に道場に移動する。
道場では、道隆が壁に護符を貼りつけていた。夏に真白が派手に壊した床は、きれいに修復されている。
「道隆さん、こんばんは」
「おお、氷魚くん。すまないね。また、いさなに付き合わせちゃって」
「いえ、おれが望んで一緒にいるので」
「そうか。ありがとう」
道隆は穏やかに笑う。作務衣姿で作業している道隆は、いかにも職人といった感じで格好いい。
「前みたいに、動きを止める結界の準備ですか?」
壁に貼られた護符には、なにやら奇妙な文様が描かれている。これも魔導具に分類されるのだろうか。
「種類が違うね。正体がわからないから、前回の結界は使えない。今回のは、道場を檻にするんだ」
「檻?」
「万が一、いさながしくじっても、怪異をここから出さないための檻だね」
「――」
「まあ、念のためさ。そんな顔をしなくても、いさなは大丈夫だよ。きみがいれば」
「え――?」
「おまたせ」
そこで、いさなの声がした。稽古用のものなのか、剣道着を着ている。髪を結い上げ、肩には凍月が乗っていた。
いさなは入り口で一礼し、道場に入る。
「袴も似合いますね」
氷魚が言うと、いさなは照れくさそうに笑った。
「ありがと」
「いさな。こっちの準備はできたよ。あとのことは心配せず、思う存分やるといい」
「わかった」
真剣な顔つきになったいさなは、道場の真ん中辺りまで歩いていって、正座した。傍らに凍月が下りたつ。凛とした居ずまいに、見ているこちらも気が引き締まる。
「ぼくたちは端にいようか」
促されて、氷魚は道隆と共に隅に寄った。
ポケットから取り出した携帯端末で時間を確認する。いさなが指定した時間は夜の8時。あと15分くらいだ。
「怪異は、来るでしょうか」
道場内は、思ったよりも声が響いた。
「春夜が関わっているとしたら、来るだろうね。あいつは、いさなに執着してるから」
それはやはり、凍月と刀の件があるからだろうか。訊きたかったが、口には出さなかった。星祭りの夜の日にいさなから話を聞いたことは、たとえ道隆でも言うつもりはない。
氷魚はいさなに視線を向ける。目を閉じたいさなは、静かに坐している。
「今回は、道隆さんも戦うんですか?」
氷魚は声を潜めた。
本当は春夜のことを訊きたかったのだが、いさなの手前、気が引けた。
「いや、ぼくは臆病者だからね。やっとうは不得手だし、サポートするだけだよ」
「銃を撃ったり?」
道隆は笑って手を振る。
「できないできない。ぼくの腕前じゃ、いさなに当たってしまうよ」
「そうなんですね」
「ずいぶん落ち着いているように見えるけど、氷魚くんは、怖くないのかい」
「怖いですよ。道隆さんこそ、臆病者って言ってましたけど、落ち着いてますよね」
「そう見えるならよかった。きみといさなの手前、強がってるんだ」
冗談めかして道隆は言う。どっしりとした大樹のような印象を受ける道隆だ。どこまで本当かはわからない。
それきり、会話が途絶えた。
緊張を紛らわすため、もう少し道隆と話をしていたいが、集中しているいさなの邪魔になるかもしれないので、氷魚は口をつぐんだ。
「風が出てきたね」
どれくらい経っただろうか。不意に、道隆が口を開いた。
確かに、さっきまでは聞こえなかった風の音がする。
なんとなく嫌な感じがして、氷魚は携帯端末に目を落とす。ちょうど8時だった。
胸は痛んでいない。
「いさなさん、汚れたものの気配はありません」
「――うん。ありがとう」
坐していたいさなは、目を開けて立ち上がった。
刀を呼び出し、鞘に納めたまま左手で持つ。そうして腰を落とし、右手を柄にかける。
ほれぼれするような、一連の所作だった。
その動作が身体に染みつくまで、いさなは一体どれほどの練習を繰り返したのだろう。
何百回、何千回、あるいは、もしかしたら、何万回か。
いずれにせよ、血のにじむような鍛錬の果てに身に着けたものに違いなかった。
「来たな」
凍月が言ったその瞬間だった。
開け放たれていた道場の入り口から、一陣の風が吹き込んできた。同時に、いさなが尋常ではない速度で抜刀した。
刃がぶつかり合う音が道場内に響き渡る。
何らかの攻防があったのかもしれないが、氷魚の目では、動きを捉えられなかった。
「まさか、あの人……」
気づけば、いさなの眼前に一人の女性が立っていた。腕から、見るも恐ろしい巨大な刃を生やした女性は――
「青葉、さん?」
小町と白鷹の姉、青葉だった。




