あやかしのサガ⑮
「男はあなたに何を渡したの?」
いさなの顔からは、一切の表情が消えていた。
「あの人、先輩の何なんですか? どこか雰囲気が似ていましたけど」
一変したいさなの雰囲気に気圧されながらも、中条はおずおずと言う。
「質問をしているのはわたしだよ」
いさなの目が鋭さを帯びた。中条は怯えたように身をすくめる。その様子を見たいさなは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
いさなは、血管が浮き出るほど強く自分の手首を握りしめる。
「ごめん。あの男は、わたしの親戚。今はそれだけしか言えない」
感情を押し殺した声だった。
しばしためらっていた中条は、意を決したように携帯端末を取り出した。タップしてから画面をいさなに向ける。
「……このアプリです」
氷魚は横合いから画面をのぞき込んだ。中条が指さしたのは、明らかに異彩を放っているアイコンだった。鎌のアイコンで、名前がない。葉山が使っていたアプリと同種のものなのだろうか。
「開いてみても問題はない?」
「開くだけなら大丈夫だと思います」
中条から携帯端末を受け取ったいさなは、アイコンをタップした。
「なんでしょうか、これ」と氷魚は呟く。
画面には、名前や生年月日を入力する欄などが表示されている。背景は黒で、得体の知れない不気味な雰囲気があった。
「なんとなく見当はつくけど、中条さん、説明してくれる?」
「はい。初回起動時にだけ、使い方が出てきたんです。必要な情報――名前や生年月日なんかを入力して、顔の映った写真を添付すれば、望む相手に怪異を差し向けることができるって」
「なるほど。それで、中条さんは弓張さんの情報を入力したわけね」
「生年月日は調べたらすぐにわかったし、写真もネットで簡単に手に入りました」
有名人がゆえの弊害か。指先1つで簡単に情報がわかってしまう。
「半信半疑だったんです。それにもし、弓張さんの髪が切られるにしても、わたしみたいにちょっと切られるだけで、たいしたことないだろうって思ってました。なのに、あんな」
中条はうつむいた。
「わたしは、取り返しのつかないことをしてしまいました。わたしなんかとは、比べ物にならないくらい価値のある弓張さんに」
うつむいた中条はゆるゆると首を振る。
「がんばってもがんばっても、何一つ報われないんです。勉強も、運動も、一定以上の水準を超えられない。唯一、容姿だけが取り柄だったんだなと、弓張さんがクラスに来て気づいたんです。でも、それも……。わたしには、弓張さんに勝てるものがない」
聞いていて、胸が締め付けられるような声だった。
「テレビの向こう側にいる人のままならよかったのに。別の世界の人だから」
そうして、顔を上げた中条は虚ろに微笑む。
「なのになんで、よりにもよってうちのクラスなんでしょうね。どうしたって、意識してしまいますよ。彼女の輝きは、わたしにとっては毒だったんです」
氷魚は奏が転校してきたことに驚いたし、それ以上に嬉しかった。クラスメイトの大半も喜んでいると思っていた。だが、ことはそう単純ではなかった。
目も眩むような輝きは、時として周囲を焼き尽くすような熱を持つことがあるのかもしれない。そうして影響を受けた人間は、以前と同じようにはいられないのかもしれない。
中条に近寄ったいさなは、そっと肩に手を乗せた。中条は身を震わせる。
「中条さん」
呼びかけるいさなの声は、柔らかかった。
「わたしも、弓張さんみたいなかわいさがあればいいなって常々思ってる。眩しいよね、彼女」
意外な言葉に、氷魚は虚を衝かれた。いさながそんなことを思っていたなんて。
「先輩も?」
驚いたのは、中条も同様だったらしい。
「うん。比べても仕方ないって思っても、つい比べてしまう。――弓張さんだけじゃない。わたしの周りには、わたしが及びもつかないひとがたくさんいる。どんなに努力しても、わたしじゃ手にできないものを持っているひと。そういうひとたちに会うたびに、自分の至らなさが嫌になる」
「わかります」
中条は胸の前で拳を握る。
「苦しいよね。ただ、こう考えると少し楽にならないかな。自分の価値は自分固有のもので、誰かと比べることで減ったり増えたりはしないって」
「固有の……」
「だから、自分に恥ずかしくない生き方をするのが大事なんだって、わたしは考えるようにしてる」
「うまくいってますか?」
中条の問いに、いさなは微笑して答えた。
「目下、努力中だね」
「そうですか……」
「中条さん。今回の件は、あなたにだけ非があるわけじゃないよ。誘導したあの男の方が、よっぽどたちが悪い」
「でも……」
「落とし前はわたしにつけさせて。遠見塚の人間が関わっている以上、わたしがなんとかする」
「……だったら、わたしはどうしたらいいでしょうか。責任は、どうやってとれば」
葉山の時と違って、中条はアプリで奏を指定しただけだ。この場合、一体どこからどこまでが中条の責任になるのだろう。
「――そうだね。とりあえず、後日、弓張さんと話そうか。今は、このアプリを使わせてもらってもいい?」
「え、それって……」
「大丈夫」
言うなり、いさなは画面に指を走らせる。一体誰をと訊く暇もなかった。
そして、名前の欄を見た氷魚は目をむいた。
遠見塚いさな。
「い、いさなさん?」
どういうつもりなのだろう。
驚く氷魚には構わず、いさなは画面に情報を入力していく。他でもない、自分自身の情報を。
留まることなく指を動かしていたいさなは、写真の添付欄で指を止めた。無くてもいいと判断したのか、そのまま情報を送信する。
写真が必要ないのは当然だ。だって、あの男、春夜はいさなの顔を知っているのだから。
その頃にはもう、氷魚はいさなの意図を察していた。
これは春夜への挑戦状で、決意表明だ。
いさなは、怪異を迎え撃つつもりなのだ。
「あれ?」
「どうしました?」
「アプリが消えた」
見れば、確かに鎌のアイコンが消えている。
「回数制限でもあったんでしょうか」
「――いえ。向こうの狙いは、もしかしたらわたしだったのかもね。わたしがこうすることを見越していたのかもしれない」
いさなは中条に携帯端末を返し、不敵に笑う。
「だったら、好都合だわ」




