あやかしのサガ⑫
朝、教室に入った氷魚は真っ先に奏の席に目を向けた。奏はすでに着席しており、隣の席の児玉と話している。
「ひーちゃん。おはよう」
氷魚に気づいた奏が手を振る。買ったばかりと思しき真新しい制服を着ていた。
だいぶ回復したようで、昨日に比べて顔色がいい。まだ首に包帯が巻かれているが、ひとまず一安心だ。
「おはよう」
ほっとしつつ、氷魚は挨拶を返した。
「ひーちゃん?」
奏と話していた児玉が首をかしげる。
適当に誤魔化そうと思ったが、それより早く、
「そう。氷魚だから、ひーちゃん」と奏が説明する。
あだ名としては、この上なくわかりやすいのだが――
「くんじゃなくて、ちゃんなの?」
やっぱりそこに突っ込むよなあと思う。高校生で、男子がちゃん付けで呼ばれるのはなかなかないのではないか。
「うん。ひーくんよりひーちゃんの方がしっくりくるから」
奏が女装の件を言うはずはないとわかっていても、やはりひやりとする。
「ひーちゃん」
児玉が口の中で確かめるようにして言う。
「あ、そうかも」
「納得しちゃうんだ……」
「ほら、やっぱり」と奏は得意げに笑う。
奏以外が使うことは、きっとないあだ名だ。まあいいかと思う。
氷魚は「そうだね」と笑みを返して、自分の席へと向かった。
「橘くんって、弓張さんと仲がいいよね」
氷魚が席に着くなり、中条がぼそりと呟くように言った。
「急にどうしたの?」
奏との経緯は、奏の転校初日に、クラスメイト全員の前で話してある。もちろん、怪異の部分は省いてあるが。
「訊きたいことがあるの。休み時間に話せるかな」
どんよりとした顔で、中条は言った。
「いいけど」
中条には、髪切り事件はまだ調査中だと告げてある。一体何の話だろう。
授業が終わるなり、中条は紙切れをそっと氷魚の机に置いて、教室を出ていった。紙には『1分後に2階の空き教室で』と書かれている。どうやら、教室ではできない話らしい。すると、やはり怪異絡みか。
教室の壁かけ時計の長針が動いたことを確認し、氷魚も教室を出た。2階の端っこ、以前、奏の机と椅子を持ち出した空き教室に入る。
「呼び出して、ごめんね」
不意に横合いから声がして、氷魚は跳び上がりそうになった。
中条だった。外からは見えない死角にいたらしい。ずいぶんな念の入れようだ。
「大丈夫。訊きたいことって?」
「うん。橘くんは、弓張さんの髪が短くなった理由を訊いたのかなって思って」
何か引っかかりを覚えたが、中条がせかすような目をしているので、氷魚はとりあえず、「ああ、そのこと」と言った。
中条は、奏が自分と同じ怪異の被害にあったのではないかと心配しているのかもしれない。
昨日からずっと思いつめたような顔をしているのもそのためだろう。
「心配しないで。中条さんの髪を切った怪異とは関係ないから」
イメチェンしたとか、気分転換とか、そういうまるっきりのでたらめを言うのは気が引けて、さりとて事実を言うわけにもいかず、氷魚はぼかした言い方をした。
「本当に?」
中条は引き下がらなかった。
「弓張さん、首に包帯を巻いてたよね。あれは? なんで昨日はジャージだったの?」
「――」
うまい言い訳が咄嗟に思い浮かばなかった。中条は言葉に詰まった氷魚をじっと見つめる。
「わたしと同じ目にあったんだね」
「いや、それは」
確定したわけではない。少なくとも、小町がやったのではないと氷魚は考えている。
口には出さなかったが、顔には出てしまったようだ。中条は細い息を吐き出す。
「やっぱり。どういうわけかわからないけど、弓張さんは髪を切られるだけじゃすまなかったんだよね」
「ごめん。おれの口からは言えない」
中条は、湿度を感じさせる視線を氷魚に向けた。
「なんでだと思う?」
「え?」
「なんで、弓張さんは髪を切られただけじゃなくて怪我までさせられたの? 調査してるんだよね? 遠見塚先輩は何か言ってた?」
「……わからないよ」
これは本当だ。なぜ奏が首を刎ねられかけたのかは、氷魚にも見当がつかない。
ただ――
「弓張さんが、誰かの恨みを買うようには思えないんだけどな」
そこまで言ってから、あ、と声に出しそうになった。
奏が殴ってしまったという芸能界のろくでなしだ。奏がKと呼んでいた男は、奏を恨んでいるのではないか。
なんで昨日のうちに気づかなかったのだろう。小町のことで頭がいっぱいだったのかもしれない。
しかし、怪異を使って復讐を企むなんて、専門家でもない一般人にできるものだろうか。
ふと、猿夢騒動で葉山が使っていたアプリが頭をよぎる。
いや、まさか。
そもそも、普段の奏は魔導具の眼鏡を装着している。奏が外を歩いていても、ほとんどの人はあのカナカナだとは気づかない。仮に奏が鳴城にいることを知っていたとしても、奏を特定するのは難しいはずだ。
「どうしてわかるの?」
考え事をしていたので、反応が一拍遅れた。
「――どうしてって」
「弓張さんが誰に恨まれてるかなんて、橘くんにわかるわけないじゃない」
「それは、そうかもしれないけど」
少なくとも、1人はいる。奏が殴った男だ。可能性は低いと思うが、後でいさなと奏に確認しようと思う。
それにしても、なぜ中条はこんなにも突っかかってくるのだろう。
「本人に何の落ち度がなくても、ただそこにいるってだけで、疎ましく思われることだってあるかもしれない。弓張さんみたいに輝きを放っている人なら、なおさら」
まくし立てるように言って、中条はそこで一呼吸置く。自分で自分の言葉に興奮しているのか、中条の肩は細かく震えていた。
「弓張さんは、妬み、嫉み、やっかみにさらされたって仕方ないんだよ。それはきっと、恵まれている人が払わなきゃいけない税金みたいなものなの。じゃないと不公平だから」
氷魚は何も言い返せなかった。完全に中条の勢いに押されていた。
言いたいことを吐き出して満足したのか、踵を返した中条は、呆気に取られた氷魚を残して空き教室を出ていった。
なんだよ、それ。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。言い返したいことは山ほどあるのに、言葉が出てこなかった。
「――違うだろ」
少しして、ようやく出てきた氷魚の呟きは、休み時間終了のチャイムに紛れて消えた。




