あやかしのサガ⑪
いさなの後に続き、マンションを出た氷魚は思う。
奏が巻き込まれた事件は、今までの髪切り事件とはわけが違う。首を切られるなんて、被害者が奏じゃなかったら、おそらく命を落としていたはずだ。
殺人、という単語が頭をよぎる。鳴城で殺人事件なんて、滅多に起こらない。少なくとも、氷魚が知っている事件はない。
なのに――
胸がざわつく。
一体、鳴城で何が起きているのだろう。
「この辺りだね」
先行していたいさなが足を止めたので、氷魚も立ち止まった。
夕暮れの中を、親子連れや、制服姿の生徒たちがちらほら歩いている。
鳴城のあちこちでよく見かける、日常の光景だった。
しかし、昨日はここで奏が首を切られたのだ。その事実にぞっとする。つい想像してしまった血だまりに倒れ伏す奏の姿は、悪夢以外の何物でもない。本当に、生きていてくれてよかった。
いさなと氷魚は、通行人の邪魔にならないよう、道の端に移動する。
「弓張さんが言っていた通り、血の跡は見当たりませんね」
「凍月、どう?」
いさなが小声で尋ねる。
「血の匂いがかすかに残っている。微弱だが、妖気も」
姿を消して氷魚の肩に乗っている凍月が言った。
「ってことは、あやかしの仕業でしょうか」
氷魚が言うと、いさなは顎に手を当てる。
「どうかな。人の魔術師が関わっている可能性もあるし」
短絡的な思い込みや先入観は禁物、ということか。
ただでさえ正体不明の怪異に魔術が絡むとなると、自分ではお手上げかもしれない。だが、だからといって考えるのをやめるわけにはいかなかった。小町の潔白がかかっているのだ。
「そうだ。妖気であやかしの種類を特定できないんですか?」
小町ではないとわかるだけでも大きいのだが。
「無理だな。残留している微弱なものじゃ、俺には区別がつかん」
「そうですか……」
どうやら、そう都合よくはいかないらしい。
「今日は引き上げましょうか」
いさなは周囲を見渡し、そう言った。
「もういいんですか?」
「見通しが悪くないってことを確認できただけで充分かな。今のところはね」
氷魚の目には手がかりは何もなさそうに映ったが、いさなは違ったのかもしれない。
「なんだ小僧。まだいさなと一緒にいたいのか」
「そうですね。2人で調査するって、久しぶりな気がしますし」
「俺は?」
「もちろん凍月さんもです。ね、いさなさん?」
「……そうだね」
氷魚が視線を向けると、いさなは慌てたように目を逸らした。
「――?」
どうしたのだろう。氷魚が首をかしげると、凍月はくつくつと笑った。
「よかったな、いさな。小僧の関心は薄れてないみたいだぞ」
「関心?」
「いいから行くよ」
そっけなく言って、いさなはさっさと歩きだしてしまう。
「あ、いさなさん。待ってくださいよ」
氷魚といさなはマンションの駐輪場に戻り、自転車のロックを外す。自転車のサドルにまたがったいさなは、どうしたわけか、すぐに自転車から降りた。
「少し、歩こうか」
「いいですよ」
帰り道は途中まで一緒だ。
ゆったりとした歩調のいさなに合わせ、氷魚は自転車を押しながらのんびり歩く。
「いさなさんは、今回の件をどう考えてるんですか」
氷魚が問うと、いさなは少し考えてから、
「氷魚くんは、小町を信じてるんだよね」と言った。
「はい。感情的にっていうのもありますけど、今回のは、以前の小町のやり方とあまりにも違うと思うんです」
さっきは落ち着いて考えられなかったが、今なら大丈夫だ。
「具体的には?」
「まず、魔術。魔術が使えるなら、最初から使っていたはずです。けど、小町は人の少ない時間帯と道を慎重に選んでいた。魔術が使えることを隠すカモフラージュだったとしても、まどっろこしすぎます」
「そうだね。他には?」
「動機です。小町には弓張さんを強引に狙う理由がない。凍月さんは髪のきれいさを理由に上げてましたけど、居候先の家主を狙うって、不自然だと思います。しかも弓張さんはダンピールで、一筋縄ではいかない。どうしても髪を切るのが我慢できないのなら、こっそり出かけて別な人を狙った方が楽ですよね」
「どうかな。動機に関しては、なんとも言えないよ。氷魚くんの推理は、『弓張さんが誰にも恨みを買っていないこと』を前提としているからね。わたしたちが知らないところで、小町が弓張さんを恨んでいるかもしれないし。まあ、小町に限った話ではないけど」
「それは……」
「弓張さんは魔導具の眼鏡をかけていたにも関わらず、狙われた。通り魔的犯行とは考えにくい。強い執着があったか、あるいは恨みがあったか」
そう言われると、ぐうの音も出ない。無意識に考えることを避けていたのを見透かされた気がした。
「――ごめん。意地悪だったね。わたしも、小町を信じたいけど」
「立場上、疑わざるを得ないんですよね」
いさなは感情で動くわけにはいかないのだ。信じたいから信じるでは、通用しないのだろう。考えたくないことも考えなくてはいけない。
「幻滅した?」
「まさか。逆ですよ。尊敬します」
「……尊敬って、どうして」
「だって、親しくなった人にああいうことを訊くのって、とてもつらいですよね。でも、いさなさんは逃げなかった。疑いたくないのに、疑うようなことを言った」
「買いかぶりすぎ」
いさなは、困ったように笑った。
「小僧は、この界隈じゃ長生きできねえな」
姿を消したまま、まだ氷魚の肩に乗っている凍月が言った。
「かもしれないですね」
「なあ小僧」
「なんですか」
「おまえは、誰かを疑って長生きするのと、誰かを信じて早死にするの、どっちがいい?」
難しいことを訊くなあと思う。そして、ちょっと意地の悪い質問だ。
「どちらかと言えば前者ですね。できるかどうかは別として、ですが」
「へえ、てっきり後者を選ぶと思ったぜ」
少し前の自分だったら、さほど迷わず後者を選んでいたかもしれない。
以前の自分は、家族に迷惑はかけたくないと思いつつも、己の命にはあまり頓着していない節があった。
一度拾った命なのだからという思いが、胸のどこかにあったからかもしれない。だからこそ、怪異に出くわした際に後先構わない無茶ができたのだろう。
でも、今は違う。死にたくないと思う。
「早死にしたら家族を悲しませるし、それに……」
氷魚は隣を歩くいさなを横目で見る。
どきりとした。
いさなが真剣な目で、こちらを見つめていた。
「それに?」と、いさなが続きを促す。
「――その、周りの人も、悲しませてしまうので」
「そうだね。氷魚くんが死んだら、わたしは悲しい」
「おれもですよ」
「――?」
「いさなさんが死んだら、おれは悲しいです」
「そっか。――うん。なるべく、死なないようにする」
「おまえら、もうちょっと言いようがあるだろうが」
凍月が嘆息する。いさなはふんわりと笑った。
「いいんだよ。わたしたちは、これで」
「ですね」
氷魚は前に向き直る。
夕暮れの中、2つの影法師が淡く伸びていた。




