あやかしのサガ➆
朝のホームルーム開始直前の時間だった。急に教室がどよめいた。何事かと氷魚が視線を上げると、皆一様に教室の前のドアを注視している。釣られるように、氷魚もそちらに目を向けた。
奏が立っている。だが――
氷魚は、弾かれたように立ち上がった。
「弓張さん!」
名前を呼びながら、クラスメイトの隙間を縫って奏の元に駆けつける。
「……あぁ、ひーちゃん。おはよう」
呼び方を指摘している場合ではなかった。氷魚は奏の顔を覗き込む。
「一体どうしたの。髪もだけど、ひどい顔色だよ」
背中まであった奏の金髪は、ばっさりと首のあたりで切られていた。
それだけではない。奏は首に包帯を巻いている。顔色も悪い。そしてなぜか制服ではなく、学校指定のジャージを着ていた。氷魚たちの学年はあずき色だ。
「平気。ちょっと貧血気味なだけだから」
奏は微笑んだが、明らかに平気そうではなかった。いつもの華やかな笑みではない。無理矢理浮かべたような、痛々しい笑みだった。
「保健室に行こう」
放ってはおけない。氷魚は、有無を言わさず奏の手首をつかんで教室の外に出た。
「あ、ちょ、ちょっと」
奏が抵抗する素振りを見せたので、氷魚は小声で、
「なんなら、いつかの逆みたいにお姫様抱っこでもいいけど」とささやいた。
奏は苦笑し、観念したように肩を落とす。
「……ひーちゃんならやりかねないね。わかった、行くよ」
勢いで口にしたものの、その場面を想像した氷魚は、猛烈に恥ずかしくなった。
ただ、奏がごねるなら抱っこしてでも連れて行くと本気で考えたのも事実だ。
今すぐにでも事情を訊きたかったが、廊下を歩いている生徒や教師の目があった。物珍しそうに奏に向けられる視線を遮りつつ、氷魚は奏を連れて保健室に向かう。
「失礼します」
保健室のドアを開ける。養護教諭の深上が、優雅にコーヒーを飲んでいた。保健室に来るのは、猿夢騒動の時以来かもしれない。
「橘くんと、――おお、話題の弓張さんじゃないの。弓張さんはここに来るのは初めてだよね。どうしたの?」
「はい。ちょっと貧血気味で……」
「なるほど。甥っ子に頼まれてたんだけど、サインをねだれるような雰囲気じゃないね。少し寝てく? それとも帰る?」
「ベッドをお借りしてもいいですか? サインはその後でよければ」
「お、ありがとう。しんどそうだけど、鎮痛剤は必要?」
「それは……大丈夫です」
痛みといえば、奏の首の包帯が気になる。怪我をしたのだろうか。
深上は「ふむ」とうなずき、氷魚に視線を向ける。
「橘くんはもう教室に戻っていいよ」
「でも……」
奏に魔力を渡すことができれば、少しは具合がよくなるのではと思う。深上の目の前でやるわけにはいかないが。
「きみが今すべきなのはきちんと授業を受けること。付き添っていたいのはわかるけどね。遠見塚さんに言っちゃうぞ」
「……なんで遠見塚先輩の名前が出てくるんですか」
深上はからからと笑う。
「ま、休み時間になったらもう一度来てよ。ほら、行った行った」
立ち上がった深上が氷魚の背を押す。さすがにこれ以上は粘れない。
半ば追い出されるような形で、氷魚は保健室を後にした。
氷魚が教室に戻ると、すでに1時間目が始まっていた。教師に「戻りました」と告げ、氷魚は自分の席に座る。
「弓張さん、どうだった?」
斜め前の席の陣屋が身体をねじって小声で尋ねてくる。心配そうな顔つきだ。
「とりあえず、ベッドで休むって」
「そう……。なんともないといいね。関係あるのかはわかんないけど、髪を切ったのも、びっくりしたよ」
陣屋がそう言った途端、氷魚の隣の席の中条がうつむくのが視界の端に入った。
目を向けると、中条は青い顔をしている。
「大丈夫? もしかして、中条さんも具合が悪いの?」
氷魚が声をかけると、中条は「……違うの」とかすれた声で言った。
「違う?」
なら、どうしたのだろう。
さらに訊こうとしたら、「そこ、うるさいぞ」と教師に注意されてしまった。前に向き直った氷魚は「すみません」と謝り、教科書を開く。
結局、授業中、中条は最後までうつむいたままだった。




