氷魚の長い1日③
放課後になった。
教室を出て、廊下の端で陣屋と落ち合った氷魚は、屋上へと続く階段の踊り場に足を向ける。氷魚といさなにとってのいつもの場所だ。
「郷土資料室に行くんじゃないの? あそこが部室だよね」
氷魚の半歩後ろを歩く陣屋が言う。
「部室には元郷土部の部長がいるんだよ。郷土部と怪異探求部は、お互いできるだけ不干渉で行こうっていう約束だから」
「なるほど。一枚岩じゃないのね。軋轢があるわけだ」
「そういうんじゃないけどね。遠見塚先輩は、なるべく巻き込みたくないんじゃないかな」
「ふうん?」
陣屋はまだ何か聞きたそうにしていたが、ちょうど踊り場に着いた。
踊り場には、すでにいさながいた。携帯端末を見つめている。氷魚たちに気づいたいさなは携帯端末をポケットにしまった。氷魚はさりげなくいさなの影を確認する。人の形をした、普通の影だ。
「陣屋さん。その後、体調はどう?」
いさなが訊くと、陣屋は何のことかわからないという顔で、
「別に悪くはないですけど、その後って何の?」と言った。
いさはなゆるくかぶりを振る。
「気にしないで。問題がないなら、いいの」
「はあ……」
陣屋の頭の上に疑問符が浮いているのが見えるようだ。
「それで、わたしに相談したいことがあるって聞いたんだけど」
いさなが言うと、陣屋は背筋を伸ばした。
「――はい。この度はお時間を作っていただき、ありがとうございます」
雰囲気が一気に変わった。まるで別人のようだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいのに」といさなは苦笑する。
「こうでもしないと、わたしの話を信じてもらえないと思うので」
「わたしは信じるよ」
「え……?」
「わたしに話そうとしてくれた時点で、わたしはあなたの話を信じる」
「先輩……」
「じゃあ、陣屋さんの話を聞かせてくれる?」
「――はい」
うなずいて、陣屋は話し始めた。
「まず、先輩は、さまよえる鎧武者の話を知っていますか」
「鳴城7不思議のうちの1つね。鳴城城址を鎧武者がさまよっているっていう話」
氷魚も知っている有名な話だ。
鳴高の裏門から出て、狭い道路を挟んだ向かいには鳴城城址がある。
そこに、鎧武者のお化けが出るというのだ。
氷魚が小学生になったばかりのころ、姉が身振り手振りを交えて情感たっぷりに話してくれたのを覚えている。おかげでしばらく夜寝る時に電気を消せなくなった。
城下町の鳴城らしい怪談だと思うが、氷魚の周りで実際に見たという人はいない。氷魚も、昔は本気で怯えていたが、ある程度大きくなったら自然に信じなくなっていた。
だが今では、ありうる話かもしれないと思う。
「そうです。その話です」
「見たの?」
陣屋はぶるりと身震いすると、「はい」とうなずいた。
「昨夜、塾で遅くなって、近道のために城址を通ったんです。そしたら――」
そこからは怒涛の勢いだった。陣屋は鬱憤をはらすかのように、昨晩の出来事をいさなと氷魚にぶちまけた。
「なるほど」陣屋の話を聞き終えて、いさなは大きくうなずいた。
「怖かったよね。無事でよかったよ」
氷魚は陣屋に声をかける。夜の鳴城城址で鎧武者の亡霊と遭遇するなんて、陣屋の恐怖は生半可なものではなかっただろう。
「先輩もだけど、橘くんはわたしの話を信じてくれるの?」
「もちろん。つい最近、怪異は本当にあるって知ったから」
「そうなんだ……」
「陣屋さんは勇気があるね。おれだったら、足がすくんで逃げることもままならなかったかも」
「よく言うわ。きみは危険を顧みず怪異に正面から向かっていくタイプでしょ。猪みたいに」
いさなが咎めるように言う。カエルの怪物の件は、まだ許されていないのだろうか。
「あれは例外っていうか。おれ1人だったら、一目散に逃げてますよ。猪じゃなくて脱兎です」
「橘くんも、ああいう、超自然的な存在に出会ったことがあるの?」陣屋が尋ねる。
「あるといえば、ある、かな」
現実ではなく夢の中なので、境界は曖昧だ。
「おれは怪異とか、お化けとか、あんまり信じてなかったんだけど、それで考えが変わったんだ」
「わたしは今でも信じたくないけどね……」と陣屋はげんなりしたように言う。
「それで、陣屋さんはわたしたちに何を希望するの? 現時点で何か困っていることがあったら、遠慮なく言ってほしい」
「そうですね。困ってることはないです。鎧武者が家についてきたってわけでもないし。ただ――」
陣屋は言葉を選ぶように少し考え込み、
「わたしは知りたいんです。あの鎧武者が、どうして現れたのか」と言った。
意外な気がした。怖いから退治してほしいというのではなく、出現理由を知りたいとは。もっとも、陣屋はいさなに怪異と戦える力があるのを知らないのだが。
「なるほど。鎧武者の出現理由を調べてほしい、というのが陣屋さんの希望ね」
「はい。もちろん、わたしにできることがあれば協力させてもらいます」
「だったら、まだわからないけど、現場検証で一緒に城址に行ってもらうことになっても、だいじょうぶ?」
「う……。できれば避けたいけど、必要ならば」
「その場合、わたしが全力で守るから、安心して」
いさなは陣屋を安心させるように微笑んだ。陣屋はしばし呆けたようにいさなを見つめた後、
「は、はい!」とうなずく。心なしか、目が潤んでいる気がする。推しのアイドルを見つめるファンみたいだった。
「あと、念のため、身の回りで何か変なことがあったら、すぐに教えてくれる?」
「はい。その時は頼らせてもらいますね!」
「うん。じゃあ、まずはこっちで調べてみるから」
「わかりました。よろしくお願いします」
最後に深々と頭を下げ、陣屋は足取りも軽く去っていった。
「さて、まずは部室に行ってみましょうか」
陣屋の後姿を見送って、いさなは言う。
「情報収集ですね」
「ええ。――さあ、本格的にキョーカイ部の活動開始よ」




