髪のまにまに㉕
客間の片隅には、氷魚の予想通りのものが置きっぱなしになっていた。これぐらいの大きさなら、氷魚のリュックにまるごと入るだろう。一応出入り口に誰もいないことを確かめて、氷魚はリュックにそれをしまう。
盗るわけではないが、どうしたってかすかな罪悪感が胸をかすめる。氷魚はそんな罪悪感ごと封じ込めるようにリュックの口を閉じた。
――これでよし。
後は、あの場所に行くだけだ。
帰宅した氷魚は、昼食後、少し眠るつもりでベッドに入った。自分ではさほど疲れていないと思っていたが、起きたら部屋が薄暗くなっていた。
寝すぎた感はあるが、出かけるにはちょうどいい時間だ。
タイミングを見計らい、「用事ができたから出かけるよ。遅くなるかもしれないから夕飯は先に食べていて」と台所の母に言って、氷魚は家を出た。
姉に見とがめられなかったのは幸いだった。もし見つかっていたら、リュックを背負ってどこに行くんだと詰問されていたに違いない。
自転車に乗り、ゆっくりと日の暮れかけた街を走る。目的地はすでに決まっていた。
途中、コンビニに立ち寄り、温かい飲み物と食べ物を買う。きっとお腹を空かせているに違いない。
それから更にペダルを漕ぐこと約15分、氷魚は、昨夜小町と遭遇した元理容室に到着した。
コンビニの袋を掲げて、氷魚は声を上げた。
「いるんでしょ、小町。おれ1人だから、出てきてよ」
廃屋から返事はなかった。まず間違いないと踏んでここに来たのだが、外れていたらどうしようと今更不安になる。
「お腹、減ってない? 肉まんとあんまんがあるよ。まだあったかいよ」
やはり返事はない。氷魚は後ろ頭をかく。
勘が外れたか。
仕方がない。昨日回った場所をもう一度回ってみるか。
腹を決めた氷魚が自転車に乗ろうとした瞬間、
「本当に氷魚だけみたいだね」
「……っ!」
急に背後で声がした。かろうじて、跳び上がりそうになるのをこらえる。
振り向けば、ふくれっ面の小町が腕組みをして立っていた。
「なんだ。やっぱりいたんじゃないか。驚かせないでよ」
薄暗い路地で、前触れもなく後ろから声をかけられるのは心臓によろしくない。
氷魚の抗議を聞いているのかいないのか、小町の視線は、氷魚が持つ袋に注がれていた。
「食べる?」
氷魚が袋を持ち上げると、小町はこっくりとうなずいた。
「どうぞ」
「ありがと」
氷魚から袋を受け取った小町は、探るのももどかしそうに肉まんを取り出してかぶりつく。よほどお腹が減っていたのか、あっという間に食べてしまった。
ペットボトルのお茶でのどを潤し、続けてあんまんも勢いよく平らげた。いさなには勝てないが、いい食べっぷりだった。
「はぁ、おいしかった。朝から変なパンしか食べてなかったから、余計においしく感じるわ」
ふくれっ面はどこへやら、満ち足りた笑顔で小町は言う。
「変なパンはひどいな。道隆さん渾身のパンなのに」
「氷魚はあれがおいしいと思ったの?」
「世界にただ一つだけの味だと思ったよ」
「ずるい答えだね」
「やっぱり?」
「自覚してるじゃん」
氷魚と小町は目を見合わせ、笑う。
「――で、氷魚はあたしを連れ戻しに来たの?」
挑むような目つきで、小町は言った。やれるものならやってみろと言わんばかりだ。
「違うよ」
家に帰れと説得できる気はしないし、かといって力尽くなんて絶対に無理だ。氷魚では小町に指一本触れることもできず、丸坊主にされて泣きながら氷魚が家に帰る羽目になるに違いない。
そもそも、本人が納得していないのだから、無理に連れ帰ってもしこりが残るだけだろう。
「え? だったら、何のために? まさか食料を届けに来たってわけじゃないよね」
「それもあるけど」
氷魚はリュックを肩から外し、中から小町のバッグを取り出した。
「忘れ物を渡しに来たんだ」
「あたしのバッグ……。わざわざ持ってきてくれたの?」
「大事なものなんだよね」
「う、うん。そうだけど……」
「なら、よかった。はい」
氷魚が差し出したバッグを、小町はそっと手を伸ばして受け取った。
「あ、ありがとう」
「じゃあ、おれはこれで。寒くなってきたから、寝る時はあったかくしてね」
言って、氷魚は自転車のサドルにまたがった。
「え、ちょっとちょっと!」と、小町に服の袖を引っ張られる。
――作戦通り。
「なに?」
氷魚はできるだけ自然に見えるように意識して振り向く。
「帰っちゃうの?」
小町は心細そうに言った。
「うん。夜ご飯まだだし。ご飯を食べたらゆっくりお風呂に入って、テレビでも観て、あとは温かいベッドでぐっすり眠る予定」
「うぐ……。この薄情者!」
明らかに効いている。これならいけるかもしれない。
「だったら、今からでもいさなさん家に行く? いさなさんたちは協会に連絡なんてしてないし、きっと受け入れてくれるよ」
満を持しての氷魚の提案に、しかし小町はぷいとあさっての方を向いた。
「それはやだ。青ねえと白にいが来るかもしれないし」
――だめか。
とりあえず遠見塚家に連れて行って、あとはいさなと落としどころを考えるという氷魚の作戦は儚く潰えた。
「なら、小町はどうしたいの?」
氷魚が問うと、小町は黙り込んでしまった。廃屋のシャッターに背中を預けてうつむく。迷子の猫みたいだ。いや、イタチか。
どうしたらいいだろう。
ちょっと考え、氷魚は自転車から降りると、小町の隣に並んだ。




