髪のまにまに㉑
「氷魚くん、小町とだいぶ打ち解けたみたいだね」
居間に移動し、ちゃぶ台の前に腰を落ち着けるなりいさなが言った。
「そうですか?」
「うん、小町の雰囲気が柔らかくなってた。氷魚くんがお風呂に入っている間にちょっと話したんだけど、ハリネズミみたいだったんだよ。名前を聞きだすのも一苦労だったし」
その姿は容易に想像できた。自分だって、女装していたという件がなければ、話の接ぎ穂に困っていたに違いない。
「小町が打ち解けたのは、いさなさんの料理がおいしかったからじゃないですか」
「ありがと。でも、それだけじゃないと思うよ。――小町と、どんな話をしてたの?」
「世間話ですよ。当たり障りのない」
嘘ではないが、まるきりの真実でもない。当たり障りは十分にあった。
正直にすべてを話せないのは心苦しいが、かといって、「いさなさんと弓張さんのどっちが好きなのと訊かれたんです」なんて、口が裂けても言えるはずがない。
「――そっか」
氷魚の内心の葛藤を知ってか知らずか、いさなは軽くうなずいた。
「やっぱり、女装してたってのが効いたんだと思います」
わざわざ女装して囮になってた変なやつ。小町の目に氷魚はおそらくそう映っていた。それが小町にとって警戒を解く要素になったのだと思う。
「氷魚くん、かわいかったからね」
今日、何回言われただろう。
小さい頃ならともかく、この年になってかわいいなんて言われるとは思ってもいなかった。
「……忘れてください」
他意のない褒め言葉だとしても、恥ずかしいのに変わりはない。
「無理だね。こっそり写真を撮って茉理さんにも送っちゃったし」
とんでもない爆弾発言だった。
「うそですよね!?」
茉理のことだから、きっと喜々として沢音や真白に見せるだろう。そこからどうなるかは、できれば考えたくない。
「どうかな。氷魚くんにはわたしの恥ずかしい中学時代の写真を見られているし」
いさなは悪戯っぽく笑う。
「うぐ……」
痛み分けということか。ならば仕方ない。
だが――
己の女装姿の写真が拡散する未来を想像し、氷魚は暗澹たる思いに包まれた。たちの悪い悪夢みたいだ。
よほど悲壮な顔をしていたのか、いさなは氷魚の顔を見て吹き出した。
「うそうそ。送ってないから、安心して」
「あ……」
心の底から安堵した。もしかしたらこれから会うかもしれないあやかしや人が、ああ、きみが『あの』橘氷魚くんね、と言ってくる可能性がなくなった。
「……よかった。って、写真自体は?」
いさなは意味ありげに笑い、「さて、そろそろわたしもお風呂に入ろうかな」と立ち上がった。
「い、いさなさん……!」
引き留める暇はなく、だからといって風呂に行くいさなの後についていくわけにはまさかいかない。
立ち上がりかけた中途半端な姿勢のまま、氷魚は独り遠見塚家の居間に取り残された。
せめて、奏は写真を撮ってませんように。
今の氷魚にできるのは、そう願ことだけだった。
翌朝は快晴だった。気持ちのいい秋晴れだ。
朝食は、塩辛を練り込んだ独創的な道隆の手作りパンがメインだった。「うちはあやかし駆け込み寺じゃないんだが……」とぼやきつつも、道隆は張り切って作ったようだ。なんだかんだ、誰かに料理を振る舞うのが好きらしい。
なお、塩辛パンを食べた小町は非常に微妙な表情をしていたが、残さずに全部食べた。
「氷魚、もう帰っちゃうの?」
氷魚が客間で帰り支度をしていたら、小町がひょっこり顔を出した。昨日と服装が違う。見た感じ、いさなの服だろう。ちょっとだぼだぼ気味だ。
「うん、あんまり長居しても悪いし」
「髪を切る約束は?」
「そうだった」
氷魚は手を止めた。そろそろ切った方がいいかなと思っていたのだ。せっかくだから、このまま切ってもらおうと思う。
「帰る前にお願いしてもいいかな」
「わかった! 道具を取ってくるね」
嬉しそうに部屋を飛び出した小町は、ほどなくして小さなバッグを持って戻ってきた。小町が持っていた手荷物だ。
「道具って、鎌で切るんじゃないの?」
昨日氷魚に跳びかかってきた小町は、鎌鼬の姿だった。てっきりあの姿で切るものだと思ったのだが。
「あっちの姿の方が動きやすいのは確かなんだけど、この手で切るのにも慣れておきたくて」
小町はバッグからハサミを取り出した。昨日、奏が使っていたものに似ている。散髪用の本格的なやつだ。
「なるほど。おれは練習台か」
「そういうこと。特別にタダにしといてあげる」
実に楽しそうに、小町はハサミをちゃきちゃきと鳴らした。
「ついてるね。散髪代が節約できる」
「じゃあ、洗面所に移動しようか。あそこなら、髪も掃除しやすいし」
「だね。いさなさんに言ってくるよ。椅子を借りて、下に敷く古新聞ももらおう」
氷魚が廊下に出ようとしたところで、インターフォンが鳴った。氷魚と小町は顔を見合わせる。
「金髪が氷魚に会いに来たんじゃない?」
「それは絶対にない。来るにしても、理由はおれじゃないよ」
氷魚と小町が廊下に出ると、いさなが戸惑ったような顔で立ち尽くしていた。すでに対応が終わったのか、インターフォンは沈黙している。
「いさなさん。どうしたんですか?」
「ああ、氷魚くん。小町も。――実は」
いさなの言葉の途中で、玄関の戸が開いた。
「朝早くから申し訳ありません。小町を引き取りに来ました」
外に立っていたのは、精悍な顔つきの青年と、穏やかそうな女性だった。




