髪のまにまに⑳
「待ってた!」
小町の顔がぱっと輝く。
その顔を見て、氷魚は早まって訊かなくてよかったと胸をなでおろした。少なくとも、食事前にする話ではなかった。おいしいものもおいしく食べられなくなってしまう。焦る必要なんてないのだ。小町は逃げたりはしないだろう。
「メニューは?」
うきうきと、小町は尋ねる。
「ハンバーグ」
「えー、子どもの好きなものじゃない」
不満だったのか、小町はまさしく子どものように頬を膨らませた。
「嫌いなの?」
「……好きだけど」
小町の膨らんだ頬は、たちまちのうちに元に戻る。
感情を隠そうともせず、短い間にころころと表情が変わる小町は、下手な人間よりも人間臭かった。
人の間で暮らしていたからそうなったのか、それとも元からなのかはわからないが、きっと彼女は周りの人やあやかしに愛されているのだろうなと思う。
「なら、よかった。氷魚くんも、お腹減ったよね」
「はい、腹ペコです」
夜歩きをしている最中は空腹を感じなかったが、緊張が解けたからか、今は猛烈にお腹が減っていた。
「じゃあ、2人ともきちんと手を洗ってから食堂に来てね」
氷魚と小町は示し合わせたように顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。
そうして氷魚と小町は連れ立って洗面所で手を洗い、食堂に向かう。
武家屋敷風な遠見塚家だが、リフォームしたのか、食堂は洋風だ。
無骨で実用一点張りなテーブルの上には、3人分の食事が並べられていた。
湯気の立つ白米に、ネギと豆腐の味噌汁、そして大根おろしがたっぷりと乗った和風ハンバーグ。サラダも添えられている。
お弁当のおかずをわけてもらったことは何度かあるが、手作り料理を振る舞ってもらえるのは初めてだ。これだけでも女装をした甲斐はあったのではないか。
「好きなところに座って」
いさなに言われて、氷魚は端の席に座った。その隣に小町が座り、向かいにいさなが腰かける。
「道隆さんは?」
「もう自分で作ったごはんを食べたって」
「そうなんですね」
道隆には申し訳ないが、ありつけたのがいさなが作ってくれた料理でよかったと思う。そしてそれは小町にとっても幸運だったに違いない。道隆の料理は、初心者には難易度が高すぎるからだ。決して単純にまずいわけではないのだが、複雑怪奇である。
「冷めないうちに食べようか。どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
氷魚と小町の声が重なった。
「そうだ。あの猫みたいなのはいないの?」
ハンバーグを半分ほど平らげたところで、小町が思い出したように言った。
「いないよ。疲れたみたい」
「どこかに隠れて、あたしを驚かそうとしてるんじゃないよね」
「してないから安心して。わたしの影の中で寝てるよ」
「影……?」
小町は首をかしげたが、いさなは詳しく説明する気はないみたいだった。ただ微笑んで箸を動かす。
「そういえば、凍月さん、隠形でおれの肩に乗ってたんですね。全然気づきませんでしたよ」
「さすがに丸腰のまま歩かせるわけにはいかないからね。凍月に護衛を頼んでいたの」
「一言言ってくれれば……って、それだとおれが意識しちゃうか」
知っていたら動作が不自然になっていたかもしれないし、うっかり凍月に話しかけていたかもしれない。そう考えると、知らされないでよかったと思う。
「そうだね。氷魚くんには悪いけど、内緒にしてたの」
「それにあたしがまんまと引っかかったってわけね」
悔しそうに小町が言う。
「あいつ、なんのあやかしなの?」
「凍月は凍月だよ。固有のあやかしで、同種はいない」
「ふぅん。聞いたことないから、超マイナーなあやかしなんだろうね」
遠慮のない小町の物言いに、いさなは苦笑する。
「全国的に見れば、そうかもね」
凍月が文句を言いながら影から飛び出してくるかなと身構えたが、いさなの影は沈黙したままだ。熟睡しているのかもしれない。
「ごちそうさまでした。食器はどこに下げればいい?」
ハンバーグの最後の一切れを名残惜しそうに口に運び、食べ終えた小町が、手際よく食器を重ねて立ち上がった。
「置いたままでいいよ。わたしが片付ける」
食後のお茶を飲んでいたいさなが言う。
「ごちそうになったんだから、片付けくらいはさせてよ。なんだったら、洗い物もするから」
「――だったら、お願いしようかな。こっちだよ」
微笑んで、いさなは自分の食器を重ねて立ち上がった。氷魚もそれに倣う。
3人は食堂を出て、台所のシンクに食器を置く。
「あとはあたしが洗っておくから、氷魚たちは休んでて」
「おれも手伝うよ」
「いいから!」
腕まくりをした小町はやる気満々だ。水を差すのは悪いかもしれない。
「わかった。任せるよ」




