氷魚の長い1日②
「橘くん。訊きたいことがあるんだけど、いい?」
昼休み、お弁当を食べ終えた氷魚に葉山が話しかけてきた。朝の陣屋といい、今日はよくクラスメイトから声をかけられる日だ。珍しい。
猿夢の一件以来、氷魚はクラスメイトから明らかに距離を置かれていた。強固とまではいかないが、固まりかけの紙粘土くらいの固さの壁を感じるのだ。
何か用事があって話しかけると、一瞬ぎょっとされる。前からプリントを回される際、ちょっとしたためらいを感じる。微妙に目を合わせてもらえない。
そういう、些細だけど引っかかることが増えた。
噂の先輩と一緒に授業を中断させたり、キョーカイ部とかいう謎の部活に入部したりと、距離を置かれる心当たりは十分すぎるほどあった。クラスメイトが関わりたくないと思うのは当然だ。
とはいえ、元々クラスメイトとはあまり絡みがなかったので、以前と大差はなかったりするのだが。
寂しくないといえばもちろん嘘になるが、屋名池もいるし、何よりいさながいるので孤独感はない。
「いいよ、どうしたの」
あんなことがあったから当然なのだが、氷魚と距離を置いている勢筆頭の葉山から話しかけてくるなんて、何事かと思う。
「じゃあ、あっちで」
葉山はベランダに続く戸を指さした。季節は梅雨の真っただ中、梅雨前線のがんばりにより、今日も雨が降っている。ベランダには誰もいなかった。
氷魚は葉山と連れ立ってベランダに出た。下は中庭で、休み時間は生徒の憩いの場となっているが、今日はさすがに無人だ。雨が降りしきる中、背の高い木に止まっているカラスだけがこちらを見ている。濡れるのが気にならないのだろうか。よくカラスの濡れ羽色の髪と言うが、いさなの髪はまさしくそれだなと思う。
「さっき、陣屋さんと何を話してたの?」
前置きもなく、葉山はそう切り出した。
「言えない」
具体的な話を聞いたわけではないが、軽々しく言えることではなかった。
「橘くん、もしかしなくても、あたしを恨んでるよね」
「恨んではいないよ。でも、槍で刺されたのは痛かったな。解剖台にピンで貼りつけられたカエルの気持ちがわかった気がする」
「ぜったい恨んでるでしょ」
「あれで『何も思ってないよ』とか言うやつがいたら、逆に怖くない?」
「それは、確かに……」
「まあでも、恨んでないっていうのは本当。思うところがあるっていうのも、本当。気持ちの整理をするのには時間がかかると思う」
猿夢騒動からまだ1か月も経っていないのだ。すべてを水に流せればいいのだろうが、自分はそこまで聖人君子ではない。ただ、いずれはなんのわだかまりもなく葉山と話せるようになればいいなとは思う。
「だから、言えない?」
「おれの気持ちは関係ない。陣屋さんの問題だから」
「そっか。もっともだね。じゃあ、これだけは教えて。あたしがしたことと、関係ある?」
「ないよ。たぶんだけど」
「そう……」
手すりにつかまり、物憂げに葉山はうつむく。
「おれからも訊いていい?」
「なに?」
「あの後、どうなったの? 猿夢を解いた後」
ずっと気になっていたのだが、なかなか訊けなかった。いさなにも教えてもらってない。
薊、児玉、桟敷は無事目覚めて復帰した。葉山も休むことなく登校している。表面上は、何も変わっていないように見える。しかし、そんなはずはないのだ。
「ああ……。家に人が来た。『キョウカイ』から派遣されたとかなんとか」
教会だろうか。宗派は不明だが、悪魔祓い的な部門があるのかもしれない。なんにせよ、いさなが手配したと言っていた専門家で間違いないだろう。
「男女の2人組で、女性は小柄、男性は大柄だったわ。対応に出たお母さんと二言三言話すと、お母さんはあっさり家に招き入れたの。普通なら絶対に怪しむのに、お母さんの目はなんだかとろんとしてた」
「……魔術とか、催眠術とか?」
黒いスーツを着た男が、ペンライトみたいなものをかざす場面を連想する。
葉山はかぶりを振る。
「わかんない。で、2人組は通されたリビングで、あたしに根掘り葉掘りいろんなことを訊いてきた。どこで魔術を知ったのか、とか、サイトの管理人とはまだ連絡を取れるのか、とか。あたしは全部喋った。喋らないといけない気がしたから」
「その、サイトの管理人ってどんな人?」
「適当に見つけたオカルトサイトだったから、よく知らない。『恨みを晴らしたい人、応援します』みたいなことが書いてあって、試しに捨てアカを作ってメールしてみたら、『だったら特別な魔術を教えてあげるよ』って返信が来たの」
「葉山さんって、魔術の才能があったの?」
氷魚が問うと、葉山は苦笑して手を振る。
「まさか。あれ、アプリだよ」
「アプリって、携帯の?」
「そう、管理人に貰ったの。猿夢アプリって名前だった。ご丁寧に、使い方も全部書いてあったわ」
「怪しすぎるね」
「最初はあたしも半信半疑だった。いや、疑い9割くらいかな。でも、試してみたら本物だったの。結果がどうなったかは、橘くんが1番よく知ってるでしょ」
「そうだね……」
クラスメイト9人を猿夢に捕らえることに成功した。アプリは、間違いなく本物だったのだ。魔術が使えるアプリなんてにわかには信じがたいが、氷魚が捕まったのは事実だ。
「オカルト好きなあたしでも、これは絶対におかしいって思った。いくらなんでも、こんなに簡単に『魔術』が使えるわけがないって。薊くんが学校を休んで、怖くなった。絶対まずい、もうやめようと思った。でも、夜になって、気づいたらまたアプリを使ってた。それだけじゃない。先輩に護符を渡された日なんて、管理人に相談すらしたわ。そしたら、アプリをアップデートしてくれたの。怪物の使役の仕方も、その時に教えてもらった。『邪魔が入ったらこいつを使うといいよ』って」
「護符を渡したその日にもうアップデートしたってことだよね」
「うん。護符の写真を送ったら、すぐだった。1時間もかからなかったんじゃないかな」
アプリ開発の技術、魔術の腕、どちらも卓越していないとできない芸当なのではないか。管理人は一体何者なのだろう。
「――あたしは猿夢アプリを使うことに抵抗がなくなってた。橘くんと先輩が止めてくれなかったら、行きつくところまで行っていたと思う」
葉山は寒そうに両手で自分をさする。猿夢アプリには、使用者の精神を蝕む効果もあったのかもしれない。夢の中の葉山は尋常ではなかった。狂気に囚われていたように見えた。
「そのアプリは、今は?」
「猿夢を解いた朝には消えてた。キョウカイの人たちにスマホを調べられたんだけど、何も見つからなかったみたい。一応それで取り調べは終わったんだけど、監視は継続中みたいね」
葉山の視線の先をたどると、先ほどからじっとこちらを見たまま動かないカラスが目に入った。なんとなく、薄ら寒いものを感じる。
「あの件では、本当にみんなに迷惑をかけたと思う。橘くんも、ごめんなさい。改めて謝罪するわ」
言って、葉山は頭を下げた。
「――うん。結果的に、みんな無事でよかったよ」
「橘くんはなんともないの? その、槍で刺されたところとか」
「だいじょうぶみたいだね」
氷魚は胸をさする。疼きはもうほとんど感じない。いずれ完全に消えるだろう。
「なら、よかった……」
葉山は、安心したように息を吐き出す。
「葉山さんは、その後どう?」
「1つだけ、いいことがあったわ」
葉山は、今日初めて笑顔を見せた。
「もしかして、屋名池のこと?」
「当たり! よくわかったね」
「なんとなくね。そうじゃないかと思った」
実は、この前屋名池に話を聞いたばかりだったのだ。葉山に、高校を卒業したらまた付き合ってほしいと言われたと。
「忠行、卒業まで待ってくれるって。一緒の大学に行こうって言ってくれたの」
「そっか。よかったね。本当に」
心の底からそう思う。嘘偽りのない氷魚の本音だった。
屋名池は『いやぁ、バイト先の子といい感じだったんだけどなぁ。しょうがないかぁ』と言いつつも、顔は炎天下のアイスみたいに蕩けていた。吹っ切ったようでいて、屋名池も葉山のことが諦めきれなかったのだとその時気づいた。
「橘くんのおかげだよ。ありがとう」
「おれは、べつに。勇気を出したのは葉山さんでしょ」
「あの時、夢の中で橘くんが言ってくれなきゃ、あたしはだめだったと思う」
「……役に立てたのなら、よかった」
面と向かってお礼を言われると、なんだか照れくさい。ただ、自分の言葉が屋名池と葉山にとってプラスとなったのなら、純粋に嬉しいと思う。
ふと、氷魚は隣のベランダに目を向ける。2-5のベランダには誰もいない。隣の教室の中では、いさながお弁当を食べているのだろうか。それとも、食べ終わって読書でもしているのだろうか。氷魚がいさなのことを考えているのを察したわけでもないだろうが、
「橘くんは、遠見塚先輩と仲がいいの?」と葉山が尋ねる。
「仲がいいっていうか、恩は感じている」
「だよね……。でも、あたしが言うのもなんだけど、あのヒトには気をつけた方がいいよ」
「どうして?」
「夢の中で、あたし見たの。あのヒトの影を」
葉山の声には、紛れもない恐怖がにじんでいた。
「影?」
「ええ、あれは……」
葉山はそこで口をつぐんだ。カラスを見やる。
「ごめん。やっぱり、あたしから言うことじゃないね。忘れて」
そこでチャイムが鳴った。一転、葉山は明るい口調で言う。
「そろそろ戻ろうか」
「だけど……」
忘れろと言われて、忘れられるものではない。いさなの影に関しては、氷魚も気になっていた。夢の中で、一瞬だけだったが、不自然に歪んでいるのを見たのだ。
「早くしないと、先生に怒られるよ」
教師が教室に入ってくるのが見えた。釈然としないが、いつまでも話してはいられない。葉山に再度促されて、氷魚は自分の教室へと戻る。背中に、カラスの視線を感じながら。




