髪のまにまに①
「深優、ソースが切れてたから、買ってきてくれない?」
ノックも無しに深優の部屋のドアを開けた母は開口一番そう言った。
「えー」
ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた深優は不服の声を漏らす。
学校から帰ってきて、晩ご飯まで自室でくつろぐのは深優の至福の時間だ。
夜になったら勉強しなくてはいけない。推薦で、この辺りでは難関で知られる鳴城高校特進科に受かったはいいが、想像以上に勉強が大変なのだ。
深優は苦労しているが、推薦で受かった他の女子たちは当たり前のように勉強ができる。少し前に廊下に貼り出されていた2学期中間テストの結果の上位はほぼ女子が占めていた。
深優は女子の中では下から数えた方が早い。
自分も塾に通った方がいいのかなと思う。ただ、陣屋幸恵が言っていた真田塾だけは勘弁だ。改心したらしいけど、ストーカーまがいの講師なんてぞっとする。いくら教え方がうまいとしてもだ。
「わたし今から勉強するの。悪いけど、お使いはパスで」
深優はしれっと嘘をついた。
問題ないだろう。何の料理かは知らないが、醤油をかければいいと思う。ソースでいけるものは大体醤油でもいけるというのが深優の持論だ。
「だったら、お好み焼きを普通のソースで食べてもらうけど?」
母は冷徹に告げた。それはどうしても認められない。お好み焼きは般若ソースに限る。深優のソースに関する持論の数少ない例外だ。
「わかった。行く」
雑誌を閉じ、深優は身を起こす。手のひらを返すのはできるだけ早い方がいい。ダメージが少なくて済む。
「深優のそういうとこ、好きよ」
「はいはい」
母が差し出した1000円札を財布にしまい、パーカを引っ掛けた深優は姿見で髪をさっと整える。そろそろ切った方がいいかもしれない。
携帯端末をポケットに入れようとしたが、充電中だったのでそのままにして部屋を出る。
「お母さん、『バニーズ』でたい焼き買ってもいい?」
深優はキッチンに戻っていた母に声をかけた。
スーパーの中にあり、たい焼きやたこ焼きを売っているバニーズはお値段そこそこ、味もまあまあで、鳴城市民に愛されているお店だ。ちょっとしたフードコートみたいになっており、放課後はだべっている中高生をよく見かける。
「いいよ。私はクリームね」
母は首だけ振り向いて言う。
「了解」
自分はつぶあんにしようと深優は決めた。
目的のソースと、ついでに秋の新作のスナック菓子をかごに入れ、レジに向かおうとした深優は通路の向こうにクラスメイトを見つけた。
弓張奏、2学期の始まりと同時にやってきた転校生だ。父は有名な冒険家で、母はイギリス人、そして、今は活動していないようだが本人は女優である。
そういう、深優が生きている世界とはかけ離れた世界の住人が、深優が通う高校に転校してきたのは驚きだった。
奏は学校ではかけていない眼鏡をかけている。そのせいなのか、いつも彼女が発している太陽みたいな存在感は影を潜めていた。
普段あまりドラマや映画を観ない深優は弓張奏のファンではないが、それでもやはり同じクラスに女優がいるというのは特別感がある。
深優も周りが騒ぐのに影響されて、以前は興味なんてなかったくせに、ついレンタルショップで奏主演の映画を借りてしまった。
針の城のなんとか、というタイトルで、ストーリーが暗く、深優にとってはとっつきにくい作品だった。しかし、奏の演技で引き込まれた。抜群の演技力だった。
恵まれてるよね、と思う。
奏は顏もスタイルもいいし、演技も歌もうまい。それだけではなく、勉強もできる。転校早々中間テストで1位を取ったのだ。女子の中で、ではない。特進科の中でだ。
なんだそれ、とも思う。
神様にひいきされすぎだ。本当に同じ人間なのか。おまけに運動神経もいい。球技が苦手みたいだが、それはご愛敬だろう。
元々のスタート位置が違うので比べるだけ虚しいのだが、ついつい我が身と比べてしまう。
勉強はどう頑張っても勝てない。
容姿だって――
1学期、男子や女子の間で、1-5女子で1番かわいいのは中条深優、と言われていたのは知っていた。態度には出さなかったが、嬉しかった。
でも、奏が来たことにより、深優はあっけなく1位の座から転落した。儚い栄光だった。
奏はいい子だ。
明るくて、誰にでも分け隔てなく接する。太陽みたいだと思う。芸能人ってなんか威張っている感じがする、という深優の先入観は見事に打ち砕かれた。深優もすぐに奏が好きになった。
だけど――
どうしても嫉妬してしまう。最初からたくさんのものを持っていてずるいなぁ、と。
きっと奏は深優がしてきたような苦労をしてこなかったに違いない。
もっとも、深優も奏がしてきたような苦労はしてこなかったのだろうが。
深優の視線に気づいたのか、奏がこちらを見た。
奏に限った話ではないが、深優は学校の外でクラスメイトに会うとどう接したらいいかわからなくなって、戸惑ってしまう。
できればスルーしたかったが、仕方がない。深優は笑みを浮かべて手を振る。すると、奏は一瞬意外そうな顔をした。それからにこやかに微笑む。金色の髪に紅い目、まるで外国のお姫様みたいだと思う。
「中条さんも夕飯の買い物?」
自然に距離を詰め、奏は言った。部活の後でそのままスーパーに寄ったのか、制服のままだ。
奏は郷土部兼怪異なんとかという部活に所属している。奏目当てに入部希望者が殺到したらしいが、全員、遠見塚いさなに追い払われたらしい。あの先輩は良くも悪くも鳴高の有名人だ。女優である奏に引けを取らない容姿だけど、何を考えているかわからない。
「ううん。わたしはお使い。弓張さんは自分で作るの?」
奏のかごにはどっさりと食材が入っている。重そうだが、奏は苦にしていないようだ。いかにも華奢そうな腕なのに、実は力持ちなのだろうか。
「うん。今日の当番はあたしだから」
「そうなんだ。弓張さんって、料理も上手そうだよね」
深優が言うと、奏は苦笑した。
「だといいんだけどね。全然だよ。かろうじて食べ物の形を取っているだけのものしか作れない」
「そうなの? なんか、意外」
「意外って、どうして?」
「弓張さんって、なんでもできる気がするから」
「いやいや、そんなわけないって。最近はできないことが多すぎてへこんでるよ。あたし、生活能力ないなぁって思ってる」
「生活能力? 弓張さんって、1人暮らしなの?」
考えてみれば、弓張一家が揃って鳴城に引っ越してきたという話は聞いてない。
「鳴城に越してきたばっかりの頃はね。いまは親戚の子と暮らしてる。その子がしっかりした子で、料理もあたしよりずっと上手いの。まだ小学生なのに」
どうやら、別世界の住人にも色々事情があるらしい。
「なるほど」と深優は無難な相槌を打つにとどめた。
深入りはしたくない。クラスメイトで深優と仲のいい幸恵だったら、ここぞとばかりに根掘り葉掘り訊くかもしれないが。
それにしても、小学生に料理の腕で負けるのは、確かにへこみそうだ。深優も料理はほとんどできない。母に任せっぱなしだ。
「でね――っと」
奏のスカートのポケットから電子音がした。重そうなかごを片手で軽々と持ったまま、奏は携帯端末を取り出す。
「噂をすれば、だね。醤油が切れそうだから買ってきてって。あたしより台所を把握してるよ」
奏は笑うと、「じゃあ、また明日学校で」と去っていった。
親戚の子と言っていたが、どんな子なのだろう。
――まあ、関係ないか。別世界の人たちだもの。




