置いてけ堀哀歌⑧
道隆に迎えを頼んだいさなと別れ、氷魚と奏は図書館まで戻ってきた。
「それじゃ橘くん、また明日」
自転車の鍵を外し、奏はサドルにまたがった。
「あ、弓張さん」
こんなことを言うタイミングではないと思う。だが、ここを逃したらたぶんずっと言えずじまいだ。
「ん?」
――母さんが弓張さんと映画の話がしたいって言ってるんだ。それで、もし、よければ、
口にすればたった数秒であるはずのセリフが、どうしても出てこない。
当初の予定では、今日の調査が終わった時点でいさなと奏を誘うつもりだった。母がごちそうしたいと言っているとかなんとか理由をつけて。
それなら奏も誘えるし、いさなも誘える。気まずくならない。
閃いた時には、いいアイデアだと思った。
けど、やっぱり、どう考えても今はそんな場合ではない。耀太のことが気がかりだった。
「――ごめん、なんでもない。また明日」
「? うん。帰り道、気をつけてね」
「弓張さんも」
自転車に乗った奏が遠ざかっていく。
奏の姿が完全に見えなくなってから、氷魚は細い息を吐き出した。
「耀太くんの様子はどうですか?」
「昨日、お風呂に入ってご飯を食べたらすぐに寝ちゃった。朝、わたしが出る時もまだ寝てたね。よっぽど疲れてたみたい」
置いてけ堀を訪れた翌日の昼休み、氷魚はいつもの踊り場でいさなとお弁当を広げていた。奏も参加したがっていたのだが、今日はクラスメイトにつかまっている。
「安心しろ、小僧。風呂は小童1人で入っていたぞ」
いさなの影から凍月の声がした。
「どういうことですか?」
凍月は急に何を言うのか。
「いや、心配したんじゃねえかと思ってな」
「心配って?」
「そりゃおまえ、いさなと小童が一緒に風呂に入」
「してませんって!」
氷魚は凍月の言葉を遮った。
その発想はなかったのに、危うくいさなが入浴している姿を思い浮かべそうになった。氷魚とて健全な男子高校生である。顔が赤くなるのを自覚する。凍月がくつくつと笑う。
「氷魚くん?」
いさなの声と目が冷たいのは、きっと気のせいではない。赤面の理由を誤解されたのかもしれない。いや、ある意味誤解ではないのだが。
「ち、違いますよ。それより、耀太くんはどうなるんですか?」
氷魚をにらんでいたいさなは一転、思案顔になる。
「住んでいたところに帰すのが筋ではあるんだけどね。そう簡単にはいかなさそう」
「家出、でしょうか」
「かもね」
「遠野って言ってたからな。隠れ里から出てきたのかもしれん」と凍月が言った。
「隠れ里?」
「日本のあちこちには、協会公認のあやかしの隠れ里があるのさ。今の人の社会に溶け込めない、住む場所をなくしたあやかしたちの避難所みたいなところだな」
「そういう場所があるんですね」
「都市伝説なんかで新しいバケモノが出てくる一方で、昔ながらのあやかしは生きにくい世の中になったからなぁ」
実感のこもった凍月の言葉だった。
「隠れ里の居心地、よくなかったのかな」いさなが呟く。
「さてな。そればっかりは本人に訊かなきゃわからん。帰ったら訊いてみようぜ」
「やさしくね」
「小童の態度次第だな」
「氷魚くんは、どうする? 遠見塚の家で話を聞くつもりだけど」
「気になるので、おれもご一緒していいですか」
幸いというかいつも通りというか、放課後の予定は何もない。
「いいよ。弓張さんにも声をかけてみようか」
「ですね」
遠見塚の家にいくのは夏休みの前以来だ。あの時は真白が一緒だった。
バイクに乗って銃をぶっ放す物騒な、でも、繊細そうな少女――
真白は、元気にしているだろうか。
ふと、沖津が言っていたことを思い出す。
魔術絡みで人や隣人を殺めたら、協会の保安部の狩人が黙っていない。
確か、そんな内容だった。
あの時は深く考えている余裕はなかったが、春夜は狩人と呼ばれる存在に追われているのだろう。
沖津の口ぶりからして、狩人に捕まったら血なまぐさいことになるのは間違いない。
そして、春夜を追っている狩人はおそらく――
「どうしたの氷魚くん、考えごと?」
「あ、いえ……」
当然、いさなは知っているはずだ。
いさなは、今の春夜に対してどういう気持ちを抱いているのだろう――




