置いてけ堀哀歌⑥
1人になった氷魚は木の棒の釣竿を構えると、水中にチーズかまぼこを投じた。
さっきまでは賑やかだったのに、急に静かになってしまった。木々のざわめきがやけに大きく聞こえる。
待つこと数分でザリガニが釣れたので、バケツに入れる。
ザリガニたちがバケツの中で蠢く音もなんだか不気味に聞こえてきた。
氷魚はできるだけ無心を保つように努力しつつ釣りを続け、それから更に3匹を釣り上げた。
時間を確認する。
1人になってからおおよそ30分が過ぎていた。
今日は何も起こらないのだろうか。予想が外れたのかもしれない。
だけど――
もう少し粘ってみようと決めた氷魚が新しいチーズかまぼこをタコ糸に結び付けた瞬間だった。
「――置いてけ」
地の底から響いてくるような、おそろしい声が聞こえた。
背筋がぞっとする。
氷魚は周囲を確認した。見える範囲には何もいないし、胸も痛んでいない。
少なくとも、汚れたものではなさそうだ。
だが、だからといって恐怖が薄らぐものでもない。怪異の怖さは何度体験しても慣れるものではなかった。
「――置いてけ」
もう一度、声が聞こえた。薊が言っていた通り、しわがれたような声だった。
声の出所は水中ではない。お堀の奥の茂みから聞こえたように思う。
何にせよ、正体を探るのは今ではない。
氷魚はゆっくりと後ずさる。
そうして踵を返し、氷魚は一目散に逃げだした。
「――聞こえました! 間違いなく、『置いてけ』って!」
小道の入り口に到着した氷魚は、木の陰に潜んでいたいさなと奏にそう言った。
全力で走ったが、秋のマラソン大会に備えて走り込みをしているおかげかさほど息は上がっていない。
「なんだよ。やっぱり俺にびびって出てこなかったのか」
いさなの影から凍月の得意げな声がする。
もしかしたら、置いてけ堀の主は凍月を警戒しているのかもしれない。だから氷魚が1人で残って様子を見る、というのが氷魚の提案だった。どうやら、当たりだったようだ。
「じゃあ、行きましょうか。できるだけ静かにね」
氷魚たちが足音を殺して置いてけ堀まで戻ると、明かりが見えた。何かが燃えているようだ。
木の陰に隠れてそっと様子を窺う。誰かがかがみこみ、つまんだザリガニに手をかざしている。その手からは、火が立ち上っている。ザリガニを焼いているのだろうか。香ばしい匂いが漂ってくる。
「男の子……?」
奏が呟く。
確かに、10歳くらいの男の子だった。ただし、明らかに普通の男の子ではない。
お尻から尻尾が生えている。
ふさふさの、狐のような金色の尻尾だった。
長い髪を後ろで1つに束ねており、束ねている部分から先が尻尾と同じように金色だ。他は黒髪である。
「妖狐、かな」といさなが言う。
「妖狐って、化け狐ですか」
妖狐は人に化ける狐で、九尾の狐が特に有名だ。
「ええ。けど、鳴城にいるっていう話は聞いたことがないわね。どこからか流れてきたのかも」
と、妖狐の男の子は氷魚たちの話し声が聞こえたのか、顔を上げてこちらを見た。驚いたように目を見開く。
男の子はザリガニを放り出し、逃げ出すつもりか素早く立ち上がった。
「気づかれた。逃げられるぞ!」凍月が姿を現す。
「任せてください!」
言うなり、奏が弾丸のような勢いで飛び出した。背中を向けた男の子に抱きつき、持ち上げる。
「捕まえましたよ」
「は、放してください!」
男の子はじたばたともがくが、奏の腕の中からは抜け出せないようだ。
「驚かせてごめんなさい。わたしたちは協会の者なの」
男の子を安心させるように、穏やかな口調で言っていさなが歩み出る。
「協会?」
男の子が暴れるのをぴたりと止めた。不安そうにいさなと、いさなの肩に乗っている凍月を見つめる。
「ええ。きみ、妖狐だよね。どうしてこんなことをしていたのか、話を聞かせてくれるかな」
「どうしてって、それは……」
言いたくないのか、男の子は口ごもった。
「めんどくせえ。尻尾でもかじればあっさり白状するんじゃねえか」
凍月が大きく口を開けた。ぎらりと鋭い牙が光る。
「ひっ……」と男の子が顔を引きつらせた。
「凍月、驚かさないの」
「ぼ、ぼくは驚いてなんていませんよ。そんなちっちゃな妖獣に」
「んだと小童、俺にびびって出てこなかったくせに」
ぎろっと、凍月は男の子をにらんだ。
「ぼくはあなたにびびっていたわけではありません」
男の子は気丈にも凍月をにらみ返す。
「じゃあ、なんで出てこなかったんだよ」
「女性を驚かすのは本意ではなかったからです」
「――は?」
「いくら飢えているとはいえ、女性からザリガニを奪い取るほど落ちぶれてはいませんから」
「飢えてる? するってえと、おまえ、ザリガニを食うために『置いてけ』って言ってたのか」
「……そうです。お恥ずかしい話ですが」
男の子は、観念したようにうなだれた。




