置いてけ堀哀歌⑤
「――そういえば弓張さん、今日は眼鏡をかけてるんだね」
真剣な顔で水面を見つめる奏に、氷魚は声をかけた。
「え? あ、うん。出歩く時はかけるようにしたんだ。……以前、家までついてこようとした人がいたからさ」
「それ、下手な怪異よりよっぽど怖いね……」
ぞっとする話だ。
「……うん。正直、怖かった」
「そんなストーカー、ぶちのめせばよかったじゃねえか」
凍月が物騒なことを言った。
「できませんって。直接何かをされたわけでもないし」と奏は苦笑する。
「されてんだろ。精神的苦痛を受けた、ってやつだ」
「それは、まあ。……でも、やっぱり、普通の人に対して暴力はいけませんよ。ロクな結果になりませんから」
「ヒトに混じって暮らすあやかしは大変だな。ヒトの法に従わなきゃならんからな。茉理とか、よくやってるよ」
「お師匠は楽しんでいるように見えますけどね」
「窮屈じゃないのかね」
「どうでしょう。でも、あたしも楽しいですよ。半分は人間っていうのもあるんでしょうけど」
「そうかい。――まぁ、おまえらがいいんなら、それでいいのかもしれないな」
「ですね」
奏は再び水面に視線を移した。心なしか、その横顔はどこか憂いを帯びている。
「――あ」と、いさなが声を上げる。
「釣れた」
タコ糸の先にはチーズかまぼこを爪で挟むザリガニの姿がある。
いさなはそっとザリガニの胴体をつかみ、バケツの中に入れた。
「おめでとうございます。いさなさんが最初ですね」
「ありがとう。やってみると、釣りって結構楽しいね」
「ザリガニって、寄生虫がいるらしいぞ。きちんと火を通せよ」
「いや、食べないからね?」
いさなが真顔で言う。そこでふと気になった。
「置いてけ堀の声の主って、ザリガニをどうしているんでしょうか」
「水の中に戻してるんじゃない?」と奏が言う。
「何のために?」
「んー……? 自然保護、とか」
どうもしっくりこない。
「釣らせないことが目的なら、バケツがいっぱいになってから『置いてけ』って言うのはおかしくないかな」
「言われてみれば、そうだね」
「だとしたら、ザリガニ自体が目的なのかもね」
いさなは自身の釣果を確かめるようにバケツを覗き込む。
「ザリガニを集めて蠱毒をするとか、ないですよね」
氷魚はなんだか不安になった。鳴城で巨大なザリガニのバケモノが暴れたらどうしようと思う。
見慣れた場所で恐ろしい怪物に遭遇する怖さは、時の腐肉食らいの時に嫌というほど味わった。あんなのはもうごめんだ。
「さすがにねえだろ。あったとしても、俺らがなんとかするさ」
凍月が頼もしいことを言う。
「その時は、お願いします」
「おまえも手伝えよ。囮役としてな」
「そうですね。それくらいなら」
「凍月?」
いさなはじろっと凍月をねめつける。
「もちろん冗談だぞ。小僧も本気にするなよ」
「で、ですよね。わかってましたよ」
「ホントかな……?」
何度か休憩を挟みつつ、氷魚たちはザリガニ釣りを続けた。そうして気づけば、3つのバケツがいっぱいになっていた。
氷魚は携帯端末を取り出して時間を確認する。もう夕方だ。
辺りは薄暗くなり始めていて、風が吹くたびに木々が不気味にざわめいた。
「黄昏時か。薊くんの話通りだとそろそろのはずなんだけど、何も起きないね」
顎に手を当てて、いさなが呟く。
「どうします。夜まで粘りますか?」
奏に尋ねられたいさなはお腹をさすった。
「そろそろお腹が減ってきたんだよね……」
釣りの合間におにぎりやサンドイッチを食べていたのにさすがだなと感心しつつ、氷魚は考える。
何も起きないのはどうしてだろう。
ザリガニは十分釣れたはずだ。
薊の話では、薊は1人だったが彼の弟は友達と一緒だった。とすると、人数は関係ないはずだ。
ならば、薊と氷魚たちの違いは何か。
氷魚はいさなの足元でつまらなそうにお堀を見ている凍月に目を向けた。
氷魚と同じことを考えたのか、いさなも凍月を見下ろす。
もしかしたら――
氷魚はいさなと顔を見合わせた。
氷魚は自分の考えを口にしようとして、ふと辺りを見渡した。
口を開く代わりに、携帯端末でいさなと奏にメッセージを送る。
いさなと奏が携帯端末を取り出した。
いさながかがみこみ、凍月に画面を見せる。
「おれ、もう少し残りますよ。まだ釣り足りないです」
2人が携帯端末をしまったタイミングで、氷魚は口を開いた。
「それじゃあ先輩、あたしたちはこの辺で帰りましょうか」
「――そうね。後は氷魚くんに任せましょう。帰ろうか、凍月」
自然な演技をする奏に対して、いさなはちょっと棒読みだった。
「あいよ」と凍月が影に溶け込むように消える。
荷物をまとめた2人は氷魚を残し、置いてけ堀を後にした。




