置いてけ堀哀歌④
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
日曜日、お昼を食べ終えた氷魚は家を出た。自転車に乗り、いさなたちとの待ち合わせ場所である図書館に向かう。いい天気だった。
駐輪場に自転車を止めて、館内に入る。冷房は弱めだが少し肌寒い。
入り口近く、雑誌が置いてあるスペースのソファーにいさなと奏を見つけた。氷魚に気づいた奏が小さく手を振った。今日は眼鏡をかけている。
「こんにちは。遅くなりました」
近づいて、氷魚は小声であいさつする。
「ううん。時間ぴったりだよ。わたしと弓張さんが早く着きすぎたの」
「それじゃ、さっそく行こうか」
3人は自転車を駐輪場に置いたまま、まず近くのスーパーに入った。
タコ糸、チーズかまぼこ、バケツを買い物かごに入れる。買うものはそれだけ――のはずだが、いさなはおむすびやサンドイッチ、お菓子を手に取り、次々とかごに入れていく。結構な量だ。
「いさなさん、お昼まだなんですか?」
「食べたよ。これは間食用。お腹が減ったら困るでしょ」
愚問だった。
薊に教えてもらった材木店近くの小道に足を踏み入れた途端、一気に涼しくなった。長袖を着てくればよかったかもしれない。日の光が当たる場所ならともかく、日陰にはもう夏の気配はない。9月も中旬で、秋の気配が濃くなってきた。
お堀を横目に道なりに歩く。
ほどなくして、氷魚たちは問題の置いてけ堀と思われる場所に到着した。
周囲を木に囲まれた寂しい場所で、薊が言っていた通り、ため池みたいになっている。
ほとりにはバケツが2つ、持ち主に忘れ去られたみたいにぽつんと置かれていた。薊と薊の弟のものだろう。
「どうだ小僧、何か感じるか?」
いさなの影からぬるりと姿を現した凍月が口を開いた。声は聞いていたが、こうして姿を見るのは久しぶりな気がする。
「いえ、特には。凍月さんは?」
「俺も何も感じねえ。特定の条件下にならないと出現しないのかもな」
「特定の条件下ってやっぱり……」
凍月はいさなが持つバケツに前脚を向ける。
「そりゃおまえ、ザリガニに決まってんだろ」
氷魚はタコ糸を程よい長さで切ると、これもやはり適当な長さにちぎったチーズかまぼこに結び付ける。手作りの釣具の出来上がりだ。
「橘くん、手際いいね」
「昔やったことあるからね」
見れば、奏の手元ではタコ糸がこんがらがっていた。氷魚の視線に気づいた奏が、「自分、不器用ですから」と照れくさそうに笑う。
「握力は高そうなのにな」と凍月がからかう。
「リンゴくらいなら割れますよ」
戦慄の返しだった。潰すよりも握力がいると聞いたことがある。
「ゴリラじゃねえか」
「さすがに500キロはありませんよ、たぶん」
「弓張さん、ちょっといい?」
氷魚は奏が持っていたタコ糸を受け取ると、手早くほぐしてチーズかまぼこに結び付けた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう!」
ふといさなに目を向けると、いさなはなぜか複雑な顔でタコ糸を見つめていた。きれいに結べている。
「いさなさん、どうかしましたか」
氷魚が声をかけると、いさなは慌てたようにタコ糸を後ろに隠した。
「ううん、べつになんでもない」
凍月がにやりと笑う。
「ははーん。さてはおまえも小僧に」
「凍月の口も結んであげようか?」
いさなは必殺仕事人みたいな仕草でタコ糸を構えた。
「……いや、遠慮しとくぜ」
「――?」
「さて、じゃあ釣ろうか」
気を取り直したようにいさなは言う。
「あ、待ってください。いさなさんのタコ糸、借りてもいいですか?」
「え? うん」
氷魚は近くに落ちていた木の枝を拾い上げると、いさなの持っていたタコ糸に結び付けた。
「この方が釣りやすいと思いますよ。気分も出ますし」
「――あ、ありがとう」
「よかったじゃねえか」
凍月が楽しそうにいさなの足を前脚で叩く。猫みたいだ。
「……うっさい」
氷魚は同様に、奏と自分のタコ糸も木の枝に結び付けた。
「では、改めて」
氷魚は濁った水中にチーズかまぼこを沈めた。
「手ごたえがあったら、そっと引き上げてください。急に引っ張ると逃げちゃうので」
「はーい」
「了解」
かくして、氷魚たちのザリガニ釣りが始まった。




