置いてけ堀哀歌①
「どうぞ」
氷魚はパイプ椅子に腰かけた薊の前に、紙コップに入った温かいお茶を置いた。
「ありがとう、橘」
薊は喉を鳴らしてお茶を飲む。
「星山くん、ごめんね。ちょっとこの部屋を使わせてもらうわ」
いさなが言うと、星山は微笑んでうなずいた。
「遠慮する必要なんてないよ。ここはキョーカイ部の部室だからね」
奏もいるので、さすがにいつもの踊り場は使えない。誰が聞いているかわからないからだ。
「俺は出ていった方がいいかな?」
星山の提案にいさなはしばし思案し、
「差し支えなければ、いてもらってもいい? 星山くんの知識に頼ることになるかもしれないから」と言った。
「そういうことなら」
「――さて。それじゃ薊くん、話を聞かせてくれるかな」
「はい。ええと、どこから話せばいいかな」
「そうね。まず、置いてけ堀の噂からお願い」
「わかりました。――2学期が始まってすぐくらいに、弟が言ってたんです。『鳴城にも置いてけ堀があるんだって』って。鳴城城址の二ノ丸グラウンドの裏手にお堀を挟んで材木店があるの、知ってますか?」
いさなはうなずいた。氷魚も何度か近くを通ったことがある。材木の独特な匂いが印象に残っていた。
「材木店の近くに小道があって、そこを進んでいくと、ため池みたいになっている場所があるんです。ザリガニが面白いように釣れるって、小学生の間では評判で」
そんな場所があるなんて、知らなかった。
鳴城のお堀は城址をぐるりと囲んでおり、全長はかなりの長さだ。地元民でも知らない場所があってもおかしくない。
桜の季節には花筏ができてきれいなのだが、普段のお堀は濁っており、はっきり言って汚い。コイやフナなどの魚が泳いでいるのを時たま見かけるが、たくましいなと思う。
「そこが鳴城の置いてけ堀?」
「って言われてますね。実際、ザリガニがよく釣れるんです。で、バケツがいっぱいになって帰ろうとすると、どこからともなく声が聞こえてくる。『置いてけ』と」
「魚じゃなくてザリガニだけど、確かに置いてけ堀ね」
「弟の話を聞いて、夏休みだからテレビで昔話のアニメでも再放送してたんだろうって思ったんです。子どもって、そういうのを身近なものと結びつけるじゃないですか。アニメを観て面白がって『鳴城の置いてけ堀』を作り上げた。おれはそう考えました」
ありそうな話ではある。城址の古井戸を見た際、氷魚も有名ホラーを連想した。
「でも、本当だった?」
いさなが言うと、薊の顔が恐怖に歪んだ。
「――はい」
「薊くんも怪異に遭遇したのね」
「……最初は、弟だったんです。学校では危ないから近寄るなって言われてるらしいんですが、友達を誘って行っちゃって。夕方、手ぶらで家に帰って来た時には何事かと思いました。真っ青な顔で『噂はホントだった! ザリガニを全部置いてきちゃった!』って。バケツごと置いてきたんですよ。それが1週間前の話です」
「薊くんは弟のためにバケツとザリガニを取り返しに行ったの?」
いさなが訊いた。薊は真顔で首を横に振る。
「そうです、って言えたらいいんでしょうけど、下心がありました」
「下心?」
薊はそこでちらと奏を見た。
「怖い話だったら、弓張さんに興味を持ってもらえるかなって。でも、行ったことないのに嘘をつくのは嫌だったので、自分で行こうって考えたんです」
「正直だね」いさなが苦笑する。
「薊くん、教室じゃ普通に弓張さんと話してるよね」
氷魚が言うと、薊はじろっと氷魚をにらんだ。
「あくまで普通に、だろ。同じ部活の橘が羨ましいよ」
たくさんの友人がいる薊でも、奏はやっぱり特別らしい。屋名池も羨ましいと言っていた。
逆の立場だったらどうだろう。自分が屋名池や薊だったら、羨ましいと思うだろうか。
思う、間違いなく。あのカナカナと同じ部活だなんて、と。
ただ、氷魚は『あのカナカナ』の女優以外の顔も知っている。なので、奏をテレビで見ていた頃のようには見れなくなった。
奏には失礼かもしれないが、もっと身近な存在になっていたのだ。友達、更に言うなら、誇張抜きで命を懸けた冒険を一緒に潜り抜けた戦友――そういった存在だ。
弓張奏は女優カナカナ以上に魅力的な存在で、だからやっぱり同じ部活のやつが羨ましいと思う。薊や尾名池の羨ましいとは意味合いが変わってくるが。
奏やいさなとの出会いは本当に偶然の産物で、もし葉山の真の標的が氷魚ではなく薊だったら、今の氷魚の席には薊が座っていたかもしれないのだ。
「――縁って、不思議だね」
「え?」薊がいぶかしげな顔をする。
「あ、いや、なんでもない」
つい口に出してしまった。
「ごめん、横槍を入れちゃって。薊くんも置いてけ堀に行ったんだよね。いつ?」
気を取り直して、氷魚は尋ねた。




